ところがあるとき、筆者が好きな小椋佳の曲を美空ひばりが歌った。小椋佳は語るように、つぶやくような作風。得意の節回しを抑え、明るくかわいらしく歌い、新境地を感じた。
正直、AI美空ひばりを見ても、彼女の人となりや「魂」を感じられず、彼女に似せたボーカロイド(音声合成技術で歌う仮想の歌手。「初音ミク」が有名)にしか思えなかった。もちろん、彼女の声を読み込ませ、ディープラーニングを駆使して再現された歌声は、よくできたものではあったが…。
NHK以外でも、亡くなったアーティストの姿を再現するプロジェクトは世界的に盛んだ。ただ、CG映像やAIは故人そのものではない。批判的な声はやはり多いという。
もし本人が天国でこのプロジェクトを見ていたらどう思うだろう。とあるアーティストが「AI美空ひばりをどう思うか」と聞かれ、「冒瀆(ぼうとく)だ」と返した。余興ならともかく、「故人をよみがえらせる」とは言い過ぎで、思い上がりに近いものを感じる。
俳優のブルース・リー、映画「ワイルドスピード」のポール・ウォーカーなど、映画やドラマの撮影中に主人公役が、世を去ることがまれにある。そうした場合、脚本を大幅に変更したり、過去の映像で代用したり、親族が演じたりする。そのほか、CGなどIT技術を駆使して完成させる場合がある。
偉人など、人の生涯を描いた伝記映画は、別人が演じる。故人に思い入れがある人からは、冒涜と思われる場合もある。クイーンのフレディ・マーキュリーを描いた映画「ボヘミアン・ラプソディ」が話題になったが、古くからのファンには受け入れ難いものでもあった。また、フレディの死後、発表されたクイーンの「ボーン・トゥー・ラブ・ユー」は、ソロ・アルバムなどから流用したツギハギだった。
有名アニメの声優が亡くなると、他の声優が引き継ぐが、ものまねタレントが引き継ぐと、思いがより複雑になる場合もある。
50周年記念作品「寅さん」はアナログにいく
渥美清演じる「寅さん」シリーズの新作、「男はつらいよ 50 お帰り寅さん」が昨年末に公開された。これは、第1作公開から50周年を記念して作られた。作品としては22年ぶりで、50作目に当たる。この映画は、実際の渥美清の過去映像から作られた。技術的には、CG合成のみにとどまる。
ストーリーは寅さんのおいの光男が、寅さんとの思い出を回想する形で展開する。「とらや」を取り巻く登場人物の「今」が、過去映像と共に描かれる。「今、先行き不透明で重く停滞した気分のこの国に生きるぼくたちは、もう一度あの寅さんに会いたい、あの野放図な発想の軽やかさ、はた迷惑を顧みぬ自由奔放な行動を想起して元気になりたい」という監督の言葉が心に染みる。
この作品はAI志向とは逆だ。4K映像にリマスターされた過去作を味わうのもいい。生身の寅さんは、3DやAIでは到底、再現できない。AI美空ひばりは茶番にしか見えず、YouTubeで過去映像を探してしまった。
著名人はAI使わぬ「遺言」も
1927年に公開された、SF映画の先駆ともいわれる映画「メトロポリス」。労働者階級の指導者「マリア」そっくりのアンドロイドを、マッドサイエンティストが制作し、民衆を扇動する。こうしたストーリーは、今まで繰り返し描かれてきた。AI美空ひばりのドキュメンタリーでも、指導者そっくりのCG映像が悪用される可能性も語られていた。
今を生きる我々に必要なのは、AIやCGで作られたものは「別物」である、という認識と判断ではないだろうか。別人が演じた伝記は、「別人だ」と見た目で区別が容易だ。だが、そっくりに作られた別物は紛らわしい。本人ではない。
制作側にもガイドラインが必要かもしれない。あくまで「しゃべる」「歌う」は禁止する(そうなると、美空ひばりの“新曲”はガイドラインから外れてしまうが)とか。
アーティスト自身は、AIによる再現を望まない、もしくは禁止する、などの遺言をすることも必要かも。死後といえど、意思に反する形で使われたら尊厳に関わるからだ。
AI美空ひばりが歌う「あれから」を見て、精巧なボーカルとPV映像にうるっとくるのが人情だ。確かに制作に当たった人々の思いや技術は詰まっている。この歌に勇気づけられる人もいるかもしれない。だが、美空ひばりの「仕事」ではない。それを忘れてはならないと思う。