2015年9月から2016年4月まで放送されたNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」は非常に人気を博しました。覚えている方も多いのではないでしょうか。ドラマの中で主人公を支える重要な役として活躍したのはディーン・フジオカさんが演じた五代友厚です。かっこいい五代が劇中で亡くなった時は「仕事に行きたくない」などの声がネット上にあふれ“五代ロス”なる言葉まで生まれました。
ドラマの主人公である「今井あさ」は女性実業家、広岡浅子をモデルとしていますが、五代は明治実業界の大物五代友厚がモデルです。残された五代の写真を見ると、少し優しいイメージがあるディーン・フジオカさんとは違ったタイプですが、キリッとした眉毛を持つかなりのイケメンだったようです。
ドラマの五代は、主人公に心を寄せながらも実業界の師として導いていく役どころでした。広岡浅子と五代が親しく交わったことを示す史料はないようですが、実際の五代も近代大阪経済の父と呼ばれる名経営者です。「東の渋沢、西の五代」と、日本資本主義の父とも称される渋沢栄一と並び称されるほどの功績を残しています。
五代は、1836年に薩摩藩士・五代秀尭の次男として鹿児島城下で生まれました。ちなみに、坂本龍馬、井上馨、山岡鉄舟など幕末から明治にかけての多くの傑物が同じ年に生まれています。
五代は、現在でいうところのグローバルな感性にあふれる人物でした。視野が広く、常に世界に目が向いていました。その萌芽(ほうが)は、すでに子ども時代に見られました。五代は小さい頃から俊英として知られていましたが、12歳の時、世界地図を模写してそれを球に張り付け、地球儀を作って眺めていたというエピソードが残っています。
21歳の時には、藩から選ばれ長崎海軍伝習所に遊学。この地で坂本龍馬、勝海舟、木戸孝允、高杉晋作、貿易商のグラバーらと親交を持ち、生涯の知友となります。行動的な五代らしいのが、長崎時代、水夫に扮(ふん)して上海に密航したこと。密航が知れたら命に関わりかねない中でのことですから、子どもの頃から抱いていた世界に対する憧憬がよほど強かったと思われます。その後、五代は正式に上海を訪れるようになり、蒸気船の購入などを行っています。
実業家・五代の礎となったのが、1865年、29歳の時の欧州視察でした。19人の留学生を率いてイギリス、フランス、ベルギーを訪れ、11カ月にわたって工場などを視察した五代は「ヨーロッパにおいて国家の基本を成しているものは工業と貿易」と看破。実現はしませんでしたが、商社の設立に動くなど、事業家としての才を現し始めます。
五代の帰国後に成立した明治新政府も、海外事情に通じたこの人物を放っておきませんでした。新政府は、五代を外国事務局判事に任命。任地となった大阪で、五代の多方面にわたる活躍が始まります。
1868年の大阪港開港にともない、五代は港湾の工事や開港規則の作成に従事。大阪の貿易拡大を企図します。造幣寮(造幣局)の建設にも携わった五代は、長崎時代からの友人であるグラバーに依頼し、香港からイギリス造幣局の中古機械を購入。現在も硬貨の製造を行う造幣局の本局は大阪にあり、その元をつくったのが五代です。そのほか、堺で起きた土佐藩兵とフランス水兵との衝突事件で和解に尽力するなど、五代の国際経験が存分に発揮されることになりました。
人を動かす“すべ”を熟知
1869年、会計官権判事として横浜に転勤を命じられた五代は2カ月で退任。大阪に戻って、実業界に身を転じることになります。野に下ってから五代が設立に関わった事業を連ねると、長いリストになるほど。実業家・五代の並々ならぬ力をうかがうことができます。
官を辞した年に金銀分析所を設立。続いて通商会社、為替会社を立ち上げた時には、消極的だった大阪の有力両替商らを説得し、大阪経済界での信望を高めたといいます。大阪活版印刷所の設立にも携わり、ここが日本初の英和辞書を印刷することになったのも国際派の五代らしい出来事です。
1878年に株式取引所条例が発布されると、鴻池善右衛門、三井元之助らとともに大阪株式取引所(現・大阪取引所)の設立を発起。同年には大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)も設立し初代会頭に就任、商慣習が乱れていた大阪の商秩序正常化に尽力します。大阪商船(現・商船三井)、大阪青銅会社(現・住友金属工業)、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)など、日本の近代化において重要な役割を果たすことになる、数々の企業の設立にも携わります。大阪のみならず、明治日本において五代は重要人物の1人でした。
なぜ、五代はこれほどの業績を残せたのでしょうか。五代の経歴を見ると国際派のエリートのように見えますが、実は、人を動かす“すべ”を熟知していたところにポイントがあるようです。興味深い文書があります。それは、友人である大隈重信にあてた数々の手紙です。大隈の短所を戒めるために書いた手紙の中で、五代は次のように書いています。
「愚説・愚論だと思っても、しっかり聞いてあげる」
「自分より地位の低い者が自分と同じような意見だった場合、必ずその人の論を褒めて採用する」
「怒気・怒声を発するのは、信望を失う元である」
「自分がその人を嫌えば、その人も自分を嫌ってしまうものだ。だから、気が進まない人とも積極的に交際するようにしてほしい」
いかがでしょうか。ビジネスリーダーの心得として、現在でもそのまま通用する内容です。これは大隈へのアドバイスとして、五代が常日ごろ心がけていた内容を友人に語りかけたと思われます。
実業家として数多くの業績を残した五代ですが、1885年、49歳の若さで亡くなった時に遺産はなく、借金だけが残っていました。私利私欲がなく、徹底的に大阪の発展に身をささげた生涯でした。現在、大阪取引所、大阪商工会議所など大阪市内の5カ所に五代の銅像が建てられています。大阪を訪れた際には、実際の五代のイケメンぶりをチェックしてもいいかもしれません。