2015年の世界新車販売台数、約1010万台。2位のフォルクスワーゲンと猛烈な争いを繰り広げながらも12年から4年連続でナンバーワンの座を保持し、世界を代表する自動車メーカーとなっているのがトヨタ自動車です。
喜一郎は、豊田佐吉の長男として生まれました。佐吉は1890年に豊田式木製人力織機、96年に日本初の動力織機である豊田式木鉄混製力織機(豊田式汽力織機)を発明し、「発明王」「織機王」として知られた人物です。喜一郎のモノづくりへの情熱は、佐吉から受け継がれたものといっていいでしょう。
大学を出た喜一郎は、1921年に父の豊田紡織に入社。工場に寝泊まりしながら、自動織機の研究を始めました。そしてその年の夏、米英の繊維機械工業の視察に出ます。米国では1913年にT型フォードの量産化が始まり、ちょうどモータリゼーションの波が訪れていた頃。自動車の行き交う光景が若き喜一郎の目に強く焼き付いたのは、想像に難くありません。しかし、自動車への思いを事業に移すのは、もう少し後のことです。
翌22年春、半年以上にわたった視察から帰国すると、喜一郎は視察の成果を生かしながら本格的に自動織機の研究開発に取り組みます。そして喜一郎がリーダーとなって1924年に完成させたのが、G型自動織機でした。これは布を織るスピードを落とすことなく横糸を自動的に補充できる画期的な織機で、世界的な紡織機メーカーだった英国プラット社が特許権を買ったほど高い評価を受けました。このあたりは、喜一郎のエンジニアとしてのセンス、力量がうかがえます。
1926年には豊田自動織機製作所を設立。同社の常務に就任して織機の開発に力を注いだ喜一郎ですが、徐々に自動車への思いは高まっていきました。
29年、喜一郎は自動織機の特許権譲渡交渉のため再び英国と米国を訪れます。このときはすでに、自動車が喜一郎の関心の多くを占めていました。英国での特許権交渉の合間を縫って、各地の自動車工場を視察します。米国ではデトロイトにあるフォードの工場を訪れ、ベルトコンベヤーを使って効率的に作業が進む様子に目を見張りました。
どちらの視察先でも、街には多くの自動車があたり前のように走っています。これから、日本でも自動車産業の時代が来る――。いよいよ、喜一郎は自動車製造に踏み出していきます。
帰国した喜一郎は、4馬力の小型ガソリンエンジンの試作を開始。1933年には電気炉を導入し、自動車用高級鋳鉄の研究も始めました。そして同年、社内に自動車製作部門を設置。本格的に自動車製造に取り組み始めます。
しかし、自動車専用の工場もなければ、部品を作る機械もありません。開発は困難を極めました。エンジンは国内に参考になるものがないので、シボレーのエンジンを解体して研究。エンジンの骨格となるシリンダーブロックを、織機の技術を応用して作ろうとしましたが、織機と自動車では構造が違いすぎて不良品が続出。まさに、試行錯誤の連続でした。試作第1号ができたのは、1935年の5月です。
苦難の末にできた、試作第1号。しかし、シボレーの部品を流用したところも多く、純国産とはいえないものでした。純国産の乗用車を作る。これが、喜一郎の大きな目標となります。
喜一郎は試作工場を建設し、A1型乗用車やG1型トラックの試作に着手。また、自動車組立工場を建設して、乗用車とトラックの生産を拡充していきました。しかし、当初は品質が安定せず故障続き。毎日のように故障車が修理に持ち込まれます。喜一郎は、スタッフと共に工場に泊まり込んで対応。自らも車の下に潜り込み、油まみれになりながら修理を行いました。喜一郎は、生粋のエンジニアでした。
花形の基幹産業から未知の自動車産業へと突き進んだ情熱
1937年、政府から自動車製造事業法の許可会社に指定されたことをきっかけに、トヨタ自動車工業株式会社を設立。本格的な生産体制を整えていきます。
しかし、同年は日中戦争が勃発した年。軍部から軍用トラックの発注が大量にあり、喜一郎が作りたかったはずの乗用車はほとんど作れません。トヨタ自動車は軍需工場に指定され、戦火が拡大するにつれ軍用トラックの生産を飛躍的に伸ばしますが、これは喜一郎の望んだ方向ではなかったでしょう。
終戦を迎えるとGHQは軍需工場の生産を禁止しましたが、1947年には乗用車の生産を許可します。トヨタ自動車が生産を始めたのは、SA型小型乗用車。愛称は「トヨペット」です。戦後の資材不足の中、ようやく自動車作りを始めることができましたが、49年にGHQが実施した金融引き締め策であるドッジラインにより日本は不況になり、トヨタも経営危機に陥ります。家族経営を旨とする喜一郎は人員整理を断固として拒みますが、最終的には人員整理を受け入れざるを得ず、喜一郎は社長を辞任します。
経営者の座に収まっていたものの、喜一郎はモノづくり情熱を失っていませんでした。社長を辞任してからも、喜一郎は小型乗用車とヘリコプターの開発に向けて準備を進めていたといいます。
50年に始まった朝鮮戦争による特需で、トヨタ自動車の経営は回復。創業者である喜一郎に社長復帰の要請がかかります。しかし、復帰を目前にした52年3月、喜一郎は脳出血で生涯を閉じました。
喜一郎は、G型自動織機を作った時代から、徹底して現場を大切にするエンジニアでした。「現場で考え、現場で研究せよ」という有名な言葉を喜一郎は残しています。
また「その手が昼間はいつも油に汚れている技術者こそ、真に日本の工業の再建をなし得る人である」といい、実際、工場で技術者の手を見て油まみれだと機嫌が良かったそうです。
また、父・佐吉から「自動車に深入りするな。本業の紡績に戻れ」と諭されたとき「技術者には1つの意地がある。やりかかったらそれを完成してみたいという意地である」と言い返したという話もあります。
トヨタ自動車が世界一の自動車メーカーになった一因として、「ジャスト・イン・タイム」「カンバン」「カイゼン」などのトヨタ生産方式がよく指摘されます。確かに、喜一郎も1930年代には「ジャスト・イン・タイム」に言及しており、早くから効率的な生産を意識していました。
しかし、喜一郎の自動車作りへの情熱が示す通り、トヨタの礎は新しいことに挑む開発者魂でした。喜一郎の時代、繊維産業は間違いなく日本の工業の基幹でした。それを支える自動織機を手掛け、改良した喜一郎はそれだけでも素晴らしい実績を上げたビジネスパーソンです。それに飽きたらず、自動車という未知の分野に挑んだ喜一郎には、現在のベンチャー企業経営者をしのぐ開発者魂がありました。現場にこだわり、自ら油まみれになりながら開発を進めてきた喜一郎のモノづくりへの情熱がトヨタの原点にあるのです。