三菱グループといえば、三菱東京UFJ銀行、三菱商事、三菱地所、三菱電機など、日本を代表する企業を多数傘下に抱える大企業グループです。その歴史の中でよく知られた人物といえば、やはり創業者の岩崎弥太郎や、弥太郎のおいで三菱財閥四代目当主となった岩崎小弥太あたりでしょうか。
しかし、三菱グループ発展の歴史を語る上では、大番頭・荘田平五郎の存在を欠かすことはできません。今回は、三菱を近代的な組織として確立し、人材教育に尽力した荘田平五郎(1847〜1922)を紹介します。
荘田平五郎は、1847年、豊後国の臼杵藩(現・大分県臼杵市)に生まれました。藩校で抜群の秀才ぶりを見せていた平五郎は、19歳で江戸の英学塾・青地信敬塾に入門。その後、藩命によって薩摩藩の開成所と洋学局に派遣され、洋学局の講師になります。明治維新後の1870年には再度の藩命によって上京し、23歳で慶應義塾に入塾しました。
そこで荘田の才能を見抜いたのが、慶應義塾の福澤諭吉です。福澤は入塾した荘田を教員として採用。荘田は三田の慶應本校や大阪、京都の分校で教壇に立つことになります。人材教育家としての荘田の礎は、慶應で培われたものでした。
そして1875年、福澤が有能な実業家として一目置いていた岩崎弥太郎率いる三菱商会(三菱グループの前身)に、荘田は入社します。ちなみに、企業の新卒入社はここから始まったといわれています。
三菱商会に入った荘田は、すぐに頭角を現しました。「三菱汽船会社規則」の策定に取り組み、さらに2年後、「郵便汽船三菱会社簿記法」をまとめて経理規定を整えました。これらにより、三菱は前時代的な大福帳経営から脱却し複式簿記へと移行。近代的な経営システムを構築していくことになります。…
荘田は、三菱初期の経営の仕組みをつくるだけでなく、さまざまな会社の設立にも携わりました。荘田が設立に関わった東京海上保険会社、明治生命保険会社は、それぞれ東京海上日動火災保険、明治安田生命保険として現在も三菱グループの主要企業となっています。また、荘田は第百十九国立銀行を三菱の傘下に収めましたが、これはその後、三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)へと発展しました。
荘田はさまざまな改革を行うことで、新しい時代に合った組織づくりを進めていきました。彼が近代日本に残した大きな功績に、長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所/正式名称は三菱重工業株式会社長崎造船所)の改革があります。
長崎造船所は、1887年に払い下げを受け、三菱の経営となっていましたが、当初は船の修繕が中心でした。造船を事業の中核にしたいと考える三菱の三代目・岩崎久弥は、三菱の全事業を指揮する立場にあった荘田を長崎造船所の所長に任命。荘田は久弥の期待に応えて積極的に設備拡充を図り、貨客船や軍艦など大型船建設への道筋を開いていきます。そして、長崎造船所で建造された船が日本の近代化で大きな役割を果たすことになりました。
アイデアマン荘田が「キリン」と「丸の内」を生んだ
荘田は、当時、豪傑ぞろいといった感の強かった初期三菱の経営陣の中でも理論派のジェントルマンでしたが、同時にアイデアマンでもありました。
三菱と関係の深かったジャパン・ブルワリー(現・キリンビール)が1888年に初めてビールを売り出す際、「麒麟」の商標を考えたのは荘田です。当時、西洋から輸入されるビールにはオオカミや猫などの動物を描いたラベルが多かったことから、東洋の聖獣である麒麟を商標に採用したといわれています。
日本を代表する企業の本社が並ぶ東京駅前の丸の内のオフィス街も、彼の発想から生まれたものでした。
1889年の英国外遊中、ロンドンのホテルで新聞を手にした荘田は、丸の内にあった練兵場の跡地に買い手が付かないという報道を目にします。当時の丸の内は、宮城(皇居)に隣り合うもののまだ東京駅もなく、原野が広がるばかりの未開発の土地でした。
日本にもロンドンのようなオフィス街を造るべきだと考えていた荘田は、「丸の内こそその場所にふさわしい」とひらめきます。そして、三菱の二代目総帥・岩崎弥之助に丸の内を買い取るよう打電。それを受けて弥之助は松方正義蔵相と掛け合い、当時の東京市における年度予算の3倍にあたる128万円で丸の内一帯を購入しました。日本を代表するオフィス街「丸の内」は、荘田の電報から生まれたのです。
人材教育こそ、企業と日本の発展の要
さまざまな企業や丸の内は、荘田が後世に残した貴重な遺産です。しかし、彼が残した最大級のものは「人づくり」だったのかもしれません。
荘田は岩崎弥太郎が東京・神田に設立した三菱商業学校(のちの明治義塾)の校長を務め、後進の指導にあたります。三菱商業学校は「記簿法初歩」「高等記簿法」などを教科として、今でいうビジネススクールです。この学校からは、三菱財閥三代目当主・岩崎久弥、第五代日本銀行総裁の山本達雄などが巣立っています。
長崎造船所の所内に、三菱工業予備学校を開設し、所長に就任。近代的な学校において、自前で職工を育てる仕組みを整えました。「傭使人扶助法(ようしにんふじょほう)」「職工救護法」といった近代的な労務管理制度を確立し、職工が安心して働くことができる環境をつくったのも荘田です。
そして、1910年に三菱を退社するに際し、荘田は故郷の臼杵に図書館の建設を提案。私財を投じてこれを実現しました。その建物は現在、臼杵市立図書館付属「荘田平五郎記念こども図書館」として再整備され、いまなお子どもたちの教育に活用されています。
俗に企業グループを比較して「組織の三菱、人の三井」といわれます。三菱グループの創成期に大番頭といわれた荘田平五郎は、多くの規則をつくり、企業の設立を手掛け、組織づくりに力を注ぎました。そして、同時に人材教育にも熱心に取り組んでいたことがお分かりいただけたと思います。組織という形をつくっても、それを動かす人づくりをしなければ発展することはない。そのことを、荘田は熟知していたのかもしれません。