三井グループは、三菱グループ、住友グループと並ぶ日本の企業グループです。江戸時代の慶長年間(1596〜1615)に三井高俊が伊勢国松坂(現・三重県松坂市)に開いた質屋兼酒屋を起源とし、明治以降、銀行や商社を中心とした一大企業グループへと成長します。
三井グループでは多くの有能な人材が活躍しましたが、その代表的な人物が三野村利左衛門(1821〜1877)です。生年すら明らかではなく、正式な学問はまったく受けていない身で、幕末から明治の初めにかけて三井の大番頭として活躍。三井銀行の設立に携わるなど、近代三井の発展に大きく貢献しました。
福沢諭吉は「無学で偉い人は二宮金次郎と三野村利左衛門」と門弟に語ったといいます。三菱をつくった岩崎弥太郎は利左衛門を終生ライバル視していたともいわれています。明治の傑物に評価される三野村利左衛門とは、いったいどんな人物だったのでしょうか。
前述のように利左衛門の生年に確かな資料はありません。本人が語ったという記録では、1821年、出羽国鶴岡(現・山形県鶴岡市)に生まれたと記されています。浪人の父と全国を流浪した末、江戸深川の干鰯問屋に奉公。勤勉な働きぶりが目に留まり、旗本・小栗家の中間(使用人)として採用されます。ここで小栗家と関係ができたことが、利左衛門の運命を大きく変えることになります。
その後、菜種油や砂糖を売っていた紀ノ国屋の婿養子となり、紀ノ国屋利八の名を継ぎました。金平糖を売り歩く行商生活を10年ほど続け、蓄えができると、利八は脇両替という小規模な両替商を始めます。両替商となった利八がある日、旧知の小栗家を訪れると、天保小判の交換比率が変更されるという情報を耳にしました。そこで利八は、直ちに天保小判の買い占めを図り、莫大な利益を得ます。
そして、付き合いのあった両替店主人のつてを頼り、利八は三井両替店に出入りするようになりました。行商で培ったネットワークで江戸市中の情報に通じ、利にさとい利八は、三井両替店の番頭から「紀ノ利」(紀ノ国屋利八の略)と呼ばれて重宝がられます。
その頃、三井は本店である越後屋の呉服業の業績不振に加え、両替店も資金繰りが悪化し、創業以来の危機に直面していました。それに追い打ちをかけたのが、幕府からの御用金の賦課です。三井は1864年以降の3年間で計266万両に及ぶ御用金の通達を受けています。当時の三井にとって巨額の資金を用立てるのは困難で、命に従えば破産しかねない状況でした。
この窮地を救ったのが、紀ノ国屋利八でした。利八は勘定奉行の職にあった小栗忠順と縁があり、そのコネクションを生かします。利八は忠順に対し、再三にわたって御用金の減額を懇願。これが奏功し、課せられていた御用金の多くが免除または減額されることになりました。危機を救われた三井は利八の能力に改めて感心し、彼を組織に迎え入れることに。それを機に利八は三井の「三」の字をもらい、三野村利左衛門と名乗ることになります。
三井の一員となった三野村は、御用金業務を取り仕切る新設の三井御用所の責任者に就任しましたが、このとき実に44歳。通常、12〜13歳で奉公に入る三井にあって、このような年齢での中途採用で要職に抜てきされることは異例中の異例でした。
維新後の三井生き残りのために尽力
幕府と薩長の対立が日を追って激しさを増していた幕末、三井にとって最重要な命題は、どのような権力の形になったとしても三井が存続することでした。この難局に当たって生きたのが、利左衛門の才覚でした。懇意だった小栗忠順を通じて幕府の情報を収集。忠順が失脚すると幕府の命運を察知し、三井に新政府への資金提供を提言しています。
また、利左衛門は三井の組織改革も断行。組織としての三井と三井家の間に明確な一線を画し、運営本部を東京に移すなど、組織の旧弊を廃して近代的で強固な体制づくりを推進しました。
新政府との関係強化を図った利左衛門は、政府要人と親交を深めます。その結果、国の財政難を乗り切るための「太政官札」の発行事務や新旧貨幣の交換業務を三井が引き受けることになります。
当時の三井は近代的な銀行の開設を目指していましたが、渋沢栄一の提案で豪商の小野組と組み、1873年、日本初の商業銀行である第一国立銀行を設立することになりました。このとき頭取に就任したのが三井、小野の両当主で、支配人となったのが利左衛門。総監役は渋沢が務めました。
その後、三井は第一国立銀行の業務から手を引きましたが、利左衛門は1876年、日本初の民間銀行「三井銀行」を開業。さらに同年、三井物産会社(旧・三井物産)も開業しました。三井は、新時代を生き抜いていくための核となる、銀行と商社という2つの中核事業を確立したのです。
組織の発展の原動力となり、押しも押されもしない三井の大番頭になった利左衛門でしたが、残念なことにこの頃病魔に侵されていました。自らが尽力した三井銀行の開業式典への参列もかなわず、1877年、その才覚を惜しまれながら57歳の生涯を閉じました。
ビジネスに生かしたい三野村の「時代の流れを読む力」
三野村利左衛門は正式な学問を受けたことがなく、非識字者に近い人物でした。しかしそんな彼が幕末から明治にかけての激動の中で翻弄される三井を救い、三井グループ発展の礎を築けたのは、時代の流れを読む確かな力によるものだったといえるでしょう。
利左衛門は、小栗忠順が失脚すると徳川幕府の命運を察し、新政府への資金提供を提案します。新しい時代の到来には新しい組織が必要として、旧弊に陥っていた組織の改革も実行しました。銀行や商社の設立も、時代流れから重要性を認識していたということでしょう。
現在、グローバル化の進展、ITをはじめとした技術の発展によって、ビジネスにおいては以前にも増して変化のスピードが増し、時代の流れを読む力が求まれています。経営者が、時代の流れを読み間違えれば、組織はすぐに勢いを失います。
激動の時代においては、時代の流れをしっかりと読み、先手を打つことが企業の存続と繁栄につながる。その力は学歴とは必ずしも関係しない。読み書きすら満足にできないにもかかわらず三井の大番頭まで上り詰めた1人の男の物語は、私たちにそのことを教えてくれているように思います。