日立製作所といえば、2016年3月期の売り上げが10兆円を超えた日本最大の総合電機メーカーです。この日立製作所を明治時代末期の1910年に創業したのが、小平浪平(おだいら・なみへい)です。
パナソニックの松下幸之助や本田技研の本田宗一郎といった創業者に比べて小平の名前はややなじみが薄いかもしれませんが、その革新性や行動は遜色ありません。ビジネスパーソンなら、ぜひ知っておきたい人物です。
小平浪平は、時代が江戸から明治に移った直後の1874年、現在の栃木市に生まれました。上京して、東京英語学校、第一高等中学校(後の旧制一高)へ進学。学校ではテニスやボート、野球などのスポーツや旅行に興じ、美術にも関心を示すなど青春を謳歌したといいます。
東京帝国大学の工科(現・東京大学工学部)へ進学したものの、ここではカメラに凝って落第を経験。それでも、工科に学ぶ者としての志の高さは、当時の彼の日記にある次のような記述からうかがうことができます。「わが国の工場の幼稚さには驚く。日本の工業が振るわないのであれば、これを振るわせるのは自分の任務である」
工業に対する強い決意を持ちつつも、学問にだけ打ち込む青白い秀才にならず、あらゆるものに興味を示して伸び伸びと青春時代を過ごした小平浪平。その時にすでに、後に発揮されることになる開拓者精神が養われていたのかもしれません。
発電所建設プロジェクトに能力を発揮
1889年、東京帝大を卒業した小平は、藤田組(現・DOWAホールディングス)へ入社しました。そして、同社の小坂鉱山に電気技師として赴任することになります。そこで運命の人、久原房之助と出会います。
久原は、現在のJXホールディングス、日産コンツェルンなどにつながる久原鉱業を後に興した人物。この時は藤田組の共同経営者の1人でした。小平は、久原から水力発電所の建設を担当するよう命ぜられ、取水堰(ぜき)や導水路、発電所、変電所、送電設備まで設計や施工を一手に引き受け、2年後にすべてを完成させました。このあたり、ひとかたならぬ小平の力量が表れています。
しかし、信頼していた久原が大阪の本店に呼び戻されると、「時代の先端をいく大きなプロジェクトをしたい」との思いから、藤田組を辞めます。その後、広島水力電気を経て、東京電燈(現・東京電力)へ入社。山梨県大月市の駒橋発電所の建設プロジェクトを中心となって進め、無事に完工させています。
藤田組や東京電燈での大きなプロジェクトを通じて、小平の心の中で膨らんだ思いがありました。それは、「どうして機械設備は外国製ばかりなのか。日本の技術でできないものだろうか?」というものです。日本の工業が発展するためには、輸入するばかりではなく、自主技術、国産の技術で機械を製作しなければならない。この思いが、やがて日立製作所の創設へと結び付いていったようです。
「国産品をこの手で」の思いが日立製作所へ結実…
1906年に小平は、藤田組を退社していた久原から「茨城県にある鉱山を買い取った。ついては君の力を借りたい」との連絡を受けます。恩人の久原からの願いを受け、小平は東京電燈をあっさり退社。久原の下へ参じます。
地元の村の名前にちなんで名付けられた「日立鉱山」に着任した小平は、発電所の建設を担当。さらに、コンベヤーや鉱山鉄道の建設などを指揮しました。そして、それらの仕事をこなすだけでも精いっぱいの小平をさらに多忙にしたのが、当時、頻繁に持ち込まれた外国製鉱山機械の修理依頼でした。
猛烈な忙しさの中でも「国産の技術で機械を作る」という思いを忘れていなかった小平は、修理の傍ら各機械の構造や製作方法を徹底的に調べ上げ、それらの技術を自らのものにしていきました。
そして苦心を重ねた末、1910年、ついに国産初となる5馬力の電動機(モーター)を完成。鉱山での試用で性能を発揮したため、引き続き200馬力の電動機も製作しました。これらの成果に自信を深め、それまでの修理工場を発展させる形で新工場の建設を会社側に要請。これが認められ、1911年、電気機械製作を受け持つ工場「日立製作所」が誕生することになりました。
この時期、小平は、「徒弟養成所」(現・日立工業専修学校)という後進のための教育機関もつくっています。全国から生徒を募集し、工業技術の習得はもちろん、読み書きなどの初等教育も実施。機械の開発だけでなく、それを支える人材まで「自分たちの手で」というこだわりを見せたのでした。
関東大震災に際して、自社の利益よりも復興を優先
1922年、関東大震災によって関東各地は甚大な被害を受けましたが、日立製作所は幸いほとんど被害に遭いませんでした。日本の工業生産を担う京浜工業地帯が壊滅したため、日立製作所にさまざまな製品の注文が全国から殺到することになります。
この時、小平は社員に以下のように訓示しました。「日立製作所は京浜地区の復興を第一の任務とする。みだりに地方からの注文を受けてその作業を滞らせてはならない」。この言葉通り地方からの注文はすべて断ってしまったため、莫大な利益がフイになってしまったといいます。しかし、日本の工業の維持・発展を優先させた英断は高く評価され、結果的に日立製作所の株を上げることになりました。
その後も、小平は新たな道を切り開いていきます。1925年には、国産初の電気機関車を製作。翌1926年には30台の扇風機を米国に初輸出し、日本の技術を世界にアピールします。そして1927年には電気冷蔵庫の開発にも成功し、世界に冠たる「技術の日立」の礎を築きました。
今だからこそ大事にしたい、小平の「開拓者精神」
2009年、前年のリーマンショックの影響で、日立製作所が大幅な赤字を出した際、経営再建に取り組んだ当時の川村社長は次のような言葉を口にして社員を鼓舞したといいます。「創業者の開拓者精神をいま一度思い起こそう」。この言葉の下に全社の力を結集し、日立は業績をV字回復させました。
「国産の技術で、国産の機械を作る」。この小平の思いは、第2回で紹介した豊田喜一郎の「国産の自動車を作る」という信念と共通したものがあります。小平や豊田が活躍した明治〜昭和初期は、機械や自動車の分野において欧米が日本より圧倒的に進んでいた時代です。その中で独自の技術を開発して世界への道を開いたのが小平であり、豊田でした。
現在、中国や韓国などの製造現場には、欧米や日本の機械ばかりが並び、国産の機械がないことが問題視されています。日本も、昔は同様の悩みを抱えていたのです。そこから抜け出すことに成功したのは小平らの開拓精神のたまものです。さまざまな分野において世界を席巻した日本の技術が優位性を失いつつあります。しかし、そうした状況を打ち破るのも、企業家の開拓精神であることを小平や豊田の足跡が、語りかけているような気がしてなりません。