「働き方改革」を安倍内閣が強力に推進しています。ワーク・ライフ・バランス、心身の健康上の観点などから長時間労働、サービス残業が日本企業の是正すべき課題としてクローズアップされ、経営側にも真摯な対応が求められています。労働環境の改善は日本全体の大きなテーマとなっています。
今から1世紀ほど前、労働環境の改善を敢然と推し進め、多くの社員から敬愛された企業人がいました。「日本的経営の祖」といわれる武藤山治(むとう さんじ、1867~1934)です。
山治は1867年に尾張国(現・愛知県)で生まれました。1881年、14歳の時に「演説を会得したい」との思いから慶應義塾に入学。福沢諭吉に薫陶を受けます。1885年に慶應義塾を卒業すると、同級生2人と渡米しました。
タバコ製造所の見習いなど職を転々としたのち、サンフランシスコ郊外のパシフィック大学に職を得て、食堂の給仕をしながら勉学に励みました。自由と平等を重視する米国での経験は、その後の山治に大きな影響を与えました。ちなみに、パシフィック大学の図書館には山治が学んだことを記念した「ムトウルーム」が設けられています。
マスコミから三井グループに転身、系列の鐘紡へ
2年の苦学の後に帰国すると、山治は銀座で新聞広告取扱所を開設。これは、日本における広告取次業の先駆となるものでした。また雑誌『博聞雑誌』を創刊するなど、山治はなかなかのアイデアマンでした。そして英字新聞社、商社などを経て1893年、三井銀行に入社。ここで、企業の改革に触れることになります。
当時、三井銀行の経営を任されていたのは、福沢諭吉のおいに当たる中上川(なかみがわ)彦次郎。経営不振に陥っていた三井銀行を立て直すため、彦次郎は不透明な関係にあった明治政府との癒着を断ち切ります。要人相手でも容赦しません。桂太郎の邸宅を差し押さえ、時の総理大臣である伊藤博文からの借金の依頼も拒絶するほどでした。また不良債権の整理を断固として推し進め、三井銀行の再建に成功します。彦次郎の下で一連の改革の一翼を担った1人が山治でした。
三井銀行での仕事っぷりが評価され、27歳の山治は三井系列にあった鐘淵紡績(後のカネボウ、現・トリニティ・インベストメント)の兵庫分工場支配人に抜てき。今度は、自らが先頭に立って改革を進めていきます。
経営の厳しかった鐘淵紡績で山治がまず重視したのがPRでした。当時、紡績業界では珍しかった新聞広告を大々的に展開。また製品を入れた見本箱を全国の問屋に送り、自社製品の品質をアピールします。そして、従業員の労働環境の改善に着手します。
8時間労働制を導入、共済組合も設立…
当時は、「女工哀史」の時代です。紡績業で働く女性たちは、劣悪な労働環境に置かれていました。長時間労働は当たり前。現在でいうパワハラのようなことも平然と行われていました。食事も粗末なものしか与えられないことが珍しくありませんでした。こうした業界の体質に山治は敢然と挑んでいきます。
まず、労働時間を短縮します。紡績業界では12時間労働も普通に行われていましたが、8時間労働制を導入。「8時間にしても密度で10時間と同じ成績が残る。労働力を使うほど得だというのは、労働者を消耗品としか考えない思い上がりである」との考えからです。
改革はそれに止まりません。傷病保険や死亡保険などが盛り込まれた共済組合を設立し、これはその後の組合制度の模範となりました。子どもを抱えた女性工員のために保育所も設置しました。また“注意箱”を設置して従業員からの声を吸い上げるとともに、会社と従業員のコミュニケーションツールとして社内報を発行しました。
枕の高さ、食事の質にも気を配り、従業員を家族同様に接しました。山治が「日本的経営の祖」といわれるゆえんです。このような労働環境に女性たちが引かれないはずがありません。他社の女性工員が鐘紡に殺到し、社会問題化するほどでした。
従業員を大切にして、業績も上げる経営を実現
山治は従業員を大切にするヒューマニストにとどまらず、経営者としても辣腕を発揮します。工場内に試験場を設けて品質向上に努め、上質な鐘紡更生絹糸を完成。また、民間会社として初めて外資を導入し、経営の近代化を進めました。鐘紡の業績は順調に伸び、大正期に入って6年間もの期間で7割配当を実施できるほどだったといいます。鐘紡は日本の紡績業を代表する企業に育っていきます。
山治は1921年に社長に就任しますが、「工場構内以外に事務所を持つことを禁ずる」と定款に定め、工場に事務所を置いて徹底した現場主義を貫きます。そして9年間社長を務めた後、辞任。その後、政界でも活躍しましたが1934年、暴漢の凶弾に倒れて近代経営の巨星は世を去りました。
1919年に開かれた第1回ILO総会で「工業的企業における労働時間を1日8時間かつ1週間48時間に制限する条約」が採択されたこともあり、日本においても大正期から8時間労働制を実施している企業はありました。しかし、この条約は有名無実化しており、10時間労働、12時間労働が当たり前のように行われていました。特に紡績業は長時間労働が常識となっている業界でした。8時間労働制を敷き、そうした状況に挑んでいったのが山治だったのです。
日本では1947年の労働基準法で1日8時間、週48時間を最長労働時間とするように定められ、1987年の改正で1日8時間、週40時間が原則となりました。しかし、それから30年を経た現在でも、これを超える労働時間がさまざまな業界で常態化しています。
売り上げ目標を達成するために、商品やサービスのクオリティーを高めるために、あるいは納期を厳守するために、長時間労働にならざるを得ない側面もあるでしょう。しかし、それが本当に改善できないことなのか、経営者としての覚悟が問われる時機が来ているのかもしれません。
従業員の長時間労働で利益を上げるのが当たり前だった紡績業で、労働時間短縮を行い、その他の労働環境も改善しながら業績を伸ばしていった山治の足跡は、今、私たちに大きなメッセージを投げかけているように思えます。