百貨店の低迷が叫ばれて久しくなっています。百貨店の売り上げは1991年の9兆7130億円をピークに右肩下がりとなり、2016年は36年ぶりに6兆円を割り込みました。主力である衣料品分野では、アパレルチェーンのシェア増加、駅ビルやショッピングセンターなど大型小売施設の多様化、顧客の高齢化などさまざまな原因が指摘されています。
ここで、明治時代、現在の百貨店の原点を生み出したビジネスパーソンの行動を振り返り、業態の存在価値を確認しておくのも意味のないことではないと思います。
1904年12月17日、次のような広告が全国主要新聞に載りました。
「当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、およそ衣服装飾に関する品目は一棟の下にて御用弁相成り候設備致し、結局米国に行はるるデパートメントストアの一部を実現致すべく候」
「デパートメントストア宣言」として知られるこの広告から、現代に続くデパート、百貨店が始まりました。広告主は三越呉服店。同店で専務取締役を務めていたのが「近代百貨店の祖」と呼ばれる日比翁助(ひび・おうすけ)です。
斜陽だった呉服店の立て直し策として百貨店を打ち出す
翁助は1860年、筑後国久留米藩士・竹井安太夫吉堅の二男として生まれました。郷里で小学校の教員をしていましたが、1880年、福沢諭吉を慕って慶應義塾に入学。その福沢から「身に前垂れを纏(まと)うとも、心には兜を着けよ」という士魂商才の教えを学びます。
王政復古を経て明治の世になっていたとはいえ、江戸時代の士農工商の考えが深く残っていた時代。その中で、利より義を、私より公を重んずる武士の精神で商売に当たれという諭吉の教えは、筑後の武士の家で育った翁助の心に深く刻まれました。
慶應義塾を卒業すると、三井銀行和歌山支店支配人などを経て1898年、三井呉服店に入り副支配人に就任します。しかし、翁助の前には厳しい壁が立ちはだかっていました。
明治維新によって大口の得意先であった武家がなくなったことは、呉服業にとって大きな打撃になっていました。また呉服から洋服の時代へと移りつつあり、需要が衰えていました。明治初期の呉服業は、斜陽産業と言ってもいい状態。1673年創業の老舗、三井呉服店の経営も厳しい局面に直面していました。
そうした中、三井銀行の大阪支店で支店長を務めていた高橋義雄が三井呉服店の理事に就任。米国の百貨店を研究した高橋は、ガラス張りのショーケースを導入するなど三井呉服店の近代化を図ります。その近代化をさらに推し進めたのが、翁助でした。
「日本の社会は、軍事も教育も工業も日進月歩で改良している。しかし、小売業はこの進歩から取り残されて旧幕の遺風を墨守(ぼくしゅ)している。これは大いに改革しなくてはならならない」と、翁助はその思いを語っています。
1904年、三井呉服店は三越呉服店と名称を変更。そして出されたのが「デパートメントストア宣言」でした。
陳列販売、文化事業など近代百貨店のシステムを確立…
翁助が改革のモデルとしたのが、イギリスの高級百貨店ハロッズでした。
渡英した際、ハロッズを視察した翁助はそこに百貨店の理想を見ました。翁助はハロッズに通い詰め、商品の陳列、接客などをつぶさに観察。ハロッズの営業担当重役と知り合いになり、接客マニュアルを日本に持ち帰りました。また当時のハロッズ総帥リチャード・バービッジとも知己を得て、百貨店経営のノウハウを教わります。これが、仕入れから陳列、接客、販促まで、日本における近代百貨店の原型となっていきます。
翁助の改革は、多岐にわたりました。それまでの顧客と対面しての座売りから、ショーケースを使っての陳列販売へと販売形態を変えていったのも翁助の功績の1つ。さらに、現在の通販にあたる外売り通信係を設けました。また、「百貨店は社会の公器」として、博覧会、美術展などの文化事業を開催したのも翁助の発案です。組織面の改革にも積極的に取り組み、日本で初めて女子店員を採用。ボーナス制度や従業員持ち株制度も導入し、福利厚生を向上させました。
1914年、東京・日本橋に三越呉服店本店が新たに完成します。ルネサンス式鉄筋5階建ての建物は「スエズ以東最大の建築」といわれる威容を誇り、日本で初めてエスカレーターが設置されました。また全館暖房が完備されるなど、まさに時代の最先端を行くものでした。正面玄関にあるライオン像は三越の名物となりますが、これも翁助のアイデアによるものでした。
江戸時代には隆盛を誇りながら明治期に斜陽産業と化してしまった呉服店は、翁助の改革により、近代的な百貨店へと生まれ変わりました。そして、三越、白木屋、高島屋、松坂屋、伊勢丹などがしのぎを削る時代に入ります。自らが生み出した百貨店の隆盛を見ながら、翁助は1931年、息を引き取りました。
百貨店業界の生みの親、翁助の行動に学ぶべき点とは
百貨店は、その後も時代の先端を行く存在として光を放ち続けました。休日には着飾って家族で百貨店に行き、買い物をし、大食堂で洋食を食べ、子どもは屋上の遊園地で遊ぶ。これが家族のライフスタイルとして定着しました。また、店内の催事場ではさまざま展覧会が開かれ、劇場ではコンサートや演劇の公演が行われるなど、文化の中心としても機能しました。
これにより戦後の高度成長期、バブル期と百貨店は売り上げを伸ばし続け、1991年に9兆7130億円を記録します。しかし、そこをピークに売り上げは下がり始め、現在も右肩下がりの傾向が続いています。低迷の原因としてさまざまな要素が指摘されていますが、隆盛を極めた昭和からの旧態依然とした形態を脱し切れていないことが問題であることは、意見の一致するところだと思います。
これは、翁助が三越呉服店に入った時の状況と似ているのではないでしょうか。翁助が三越呉服店に入った時も呉服業は花形産業だった江戸時代の形態を引きずったままになっており、経営は厳しい局面にありました。そこから一大改革を行い、百貨店として時代の最先端を行く存在に生まれ変わらせたのが翁助でした。
「デパートメントストア宣言」からすでに1世紀以上を経過しています。時代の流れに乗り遅れ苦境にある百貨店が不振を脱却するには、新たに消費者のニーズを生み出す大胆な改革を行い、新しい小売りスタイルを生み出すくらいでなくては難しいことを翁助の軌跡は示しているのではないでしょうか。