日本を代表する商都、大阪。近代に入ってその基礎を築いた立役者の1人として連載第1回に五代友厚を紹介しました。今回は、同じく関西経済界の発展に寄与した岩井勝次郎を取り上げます。
勝次郎は、現在の商社、双日につながる岩井商店を起こして貿易に活躍。その後は関西ペイント、大阪繊維工業(現・ダイセル)、亜鉛鍍(現・日新製鋼)、東亜紡織(現・トーア紡コーポレーション)など数々のメーカーの設立にも携わった、関西経済界の大功労者です。
信用状による取引を日本で初めて実行
1863年、丹波(現・兵庫県)に生まれた勝次郎は、大阪に出て義父の文助が経営する雑貨舶来商で店員として働き始めました。
大阪から神戸の外国人居留地にある外国商館に通う日々の中で、勝次郎は不平等な商習慣に直面することになります。当時、日本の商人は信用状取引を行うことができず、現金による前払いでしか貨物を引き取ることができなかったのです。また価格は外国商館の言い値に従い、違約があったときには泣き寝入りすることも多かったようです。
こうした状況に矛盾を感じていた勝次郎は、1896年に義父の下から独立して岩井商店を設立。神戸の外国商館を通さず、海外の貿易商と直接取引を始めました。これに驚いたのが外国商館です。「直接取引をやめなければ、岩井商店とは取引しない」などと圧力をかけてきましたが、勝次郎は意に介しません。
また横浜正金銀行の高橋是清副頭取に協力を求め、現金による前払いを必要としない、トラスト・レシート(信用状)による貨物引き渡しを実現しました。トラスト・レシートを使った海外との直接取引という近代貿易の、日本における先駆けとなったのです。
1914年に第一次世界大戦が勃発。欧州において軍需品需要が増大、それとともに欧州製品が後退したアジア・アフリカ市場で日本製品の需要が急激に高まり、日本に大戦景気が訪れます。この景気を背景に岩井商店は大きく発展を遂げます。
岩井商店の発展を支えたのは大戦景気という外部環境にだけではありません。勝次郎のビジネススタイルも大きな要因だったでしょう。「なるべく先方にもうけさせる。先方でもうかりさえすれば、アフリカの山奥からでも注文が来る。もうからなかったら、上海、ロンドンからでも注文が来ない。なるべく先方にもうけさせて、そうして自分の方も取ることが必要である」。店員時代からあまたの商売を経て育んだ先方第一主義です。
貿易から製造業へと活躍の場を拡大…
岩井商店は商社として成功を収めますが、勝次郎の活躍の場は貿易だけにとどまりません。製造業の発展なくして日本の未来はない−−。こうした思いから、次々とメーカー設立にも乗り出します。1907年、東京の製造所の経営に参画する形でメリヤス製造に進出。翌年には日本セルロイド人造絹糸を設立し、セルロイドの製造を始めます。
第一次世界大戦が勃発すると欧州からの輸入が激減したため、輸入に頼っていた製品の国内製造にも乗り出します。1916年に不足していた薄鋼板の工場を山口に建設。塗料需要に対応するため、1918年には関西ペイントを設立しました。のちにメリヤス製造は東亜紡績に、セルロイド製造は大阪繊維工業に、薄鋼板製造は日新製鋼へと発展していくことになります。
大戦景気を追い風として貿易に製造にと事業を拡大していった勝次郎。勢いに任せた積極拡大派に見えますが、実は冷静で堅実派でした。1919年に第一次世界大戦が終戦を迎えると、勝次郎は大戦景気の終わりとともに反動で不況が到来することを予測。岩井商店の社員に対して訓示を発します。
「幹部は各社員に対して時勢の趨向を指示し、統一した方針を取ることに注意するとともに、意思の疎通を怠らないようにせよ」
「商売は自分だけで成り立つものではない。相手方とお互いであることを忘れないようにせよ」
「我々貿易商は、特に人と資金と商売とのバランスに注意するはもちろん、恐慌の場合に対する準備を怠らないようにせよ」
「商売のための範囲はやむを得ないが、利益を目的とする投機は断じてするな」
勝次郎が予測した通り、1920年には戦後恐慌が始まり、多くの企業が倒産の憂き目に遭いました。その中でも岩井商店をはじめとした企業はほとんど生き残り、その後も発展していきました。明治に始まる日本近代化の一端を担い、関西実業界の立役者となった勝次郎は、日本の発展を見ながら1935年に息を引き取りました。
慎重・堅実と不屈の精神の融合が成功を生む
貿易で活躍し、次々とメーカーを起こした実業界の大物というと、豪快な人物をイメージするかもしれません。しかし、勝次郎は非常に地に足の着いた、堅実な仕事のやり方をする人でした。岩井商店の初期においては、毎月1回、必ず取引銀行に貸借対照表を提示するようにしていました。
毎夜、遅くまで帳簿に目を通し、相場変動の大きな商品の取引については前日の晩、担当者に翌日の相場予想を聞いていたといいます。そして、新しい事業を手掛けるときには事前調査に最善を尽くすようにしていました。
ただ、堅実さ、慎重さだけではこれほどの成功を収めることはできなかったでしょう。「利益を目的にした仕事は、景気が変わってくるとすぐに行き詰まる。仕事を目的に始めた仕事は、困難が多いかもしれないが、最後にはやり遂げたほうがいいと考えるようになる」という信念。「事業をひとたび手掛けたからには、どんな困難に遭ってもこれを成し遂げなければならない」という不屈の精神。これらが共にあったからこそ、勝次郎は商都・大阪の立役者の1人になれたのだと思われます。