利八は1884年、岐阜県大垣市で生まれました。幼い頃から大阪の薬種問屋に奉公に出た利八は、その後京都の織物問屋に移り、番頭を務めます。真面目な仕事ぶりで重要な仕入れまで任された“デキる”番頭だったようです。
そんな利八の運命を左右する出来事が1903年に起こります。番頭の利八が三高(現・京都大学)のグラウンドを通りかかると、三高の学生と外国人がボールを使いながら走り回っている様子が見えました。これが当時日本で人気の出始めていた野球で、神戸の外国人チームと三高との試合でした。
それまで商売の世界で利益を上げることに熱中していた利八は、もうけにならない野球というものに三高の学生と外国人が真剣に打ち込む姿に感動します。この素晴らしい野球というスポーツに、自分の人生を賭けてみよう。「スポーツ産業は聖業である」と言ってはばからなかった利八の新しい人生が、ここから始まります。
利八は1906年、弟の利三と共に大阪市北区で水野兄弟商会を創業。織物問屋で培った経験と技能を生かし、ユニホーム、スポーツウェアの販売から事業を始めます。そして1910年には美津濃商店に改名。スポーツ用品といえばほとんどが輸入もので、本格的なスポーツ用品を製造する会社が国内になかった当時、スポーツ用品の製造に乗り出し、野球用のグラブ、ボールの製造を始めます。
利八が非凡だったのは、用具の販売と製造にとどまらなかったことです。野球が広まれば商品が売れるという商売人としての発想だけでなく、野球という素晴らしいスポーツをもっと多くの人に知ってもらいたいという思いから、1911年に日本初の社会人野球の大会「大阪実業団野球大会」を主催。これは後に都市対抗野球大会へと発展します。1913年には中学のチームを集めて関西学生連合野球大会を開催。これがのちに全国高等学校野球選手権大会となりました。
このように野球の普及に努めた利八ですが、野球が広く行われるようになるためには用具の規格化が欠かせないことを利八は見抜いていました。用具の品質がバラバラでは、大会を行っていても公平性が保たれません。
そこで、利八はボールの規格化に取り組みます。決まった高さからボールを落とし、決まった高さまで跳ね上がるように実験を繰り返します。表面の皮や中に使うゴムの品質、縫い目の数や縫い目の高さなどを均一にしなければ、同じようにボールが跳ねるようになりません。皮革業者にも厳しい注文を出すなど、試行錯誤を繰り返します。そうして1916年、全国統一の野球の標準球を完成させました。
野球からスポーツ全般へ
ボールやグローブなど野球用品のメーカーとして美津濃商店は名を上げていきますが、利八は満足しませんでした。野球だけでなくスポーツの素晴らしさに魅了された利八はさまざまな競技用品を手掛けます。1923年にスキー用品の開発を始め、1927年、ヒッコリー製のスキー板を発売。1933年には初の日本製ゴルフクラブである「スターライン」を発売。現在、多くの日本人が楽しんでいるスキーやゴルフの普及にも貢献します。
そして、野球人気の爆発とスポーツ人口の増大により美津濃商店は発展を遂げ、1942年には会社を美津濃株式会社に改組。第二次世界大戦の終戦後には辛酸をなめましたが、買い出しに使うリュックサックの販売などに活路を見いだし、戦後の復興でスポーツ熱が高まるのに伴い事業は復活しました。
1957年には樹脂注入圧縮バットを開発して特許を取るなど画期的な製品を開発し「世界のミズノ」の礎を築いて利八は1970年に亡くなりました。
マーケティングと製品へのこだわりを併せ持つ
足跡をたどるとスポーツに魅了された青年がスポーツ用品作りにまい進するストーリーに見えますが、それは利八の1つの側面にすぎません。経営の神様・松下幸之助が「私に経営を教えてくれた人」というほど、利八は経営センスに優れた人物でした。
もともと利八は番頭時代から米国の百貨店王で「マーケティングの先駆者」ともいわれるジョン・ワナメーカーに憧れ、英語や米国の商法を学び、商人としての基礎を築いてきました。
スポーツ用品を売るだけでなく、そのスポーツそのものを広める利八のやり方はマーケティングという観点からも優れた方法です。新しい商品を販売する際にはネーミングが非常に重要ですが、利八はそのセンスにも秀でていました。「ポロシャツ」「カッターシャツ」「ボストンバッグ」などは、利八が名付けたものです。
販促でもユニークなエピソードがあります。来日したシカゴ大学の野球チームと早稲田大学などが試合をするとき、利八は弟の利三と一緒に店舗で取り扱っている赤シャツを着て観戦に行きました。そして、2人で大声を張り上げて応援。すると、それが学生たちの間で評判となり、赤シャツを着ての応援が流行。赤シャツが飛ぶように売れたといいます。
販売への才能を見せる利八ですが、さらに併せ持っていたのが、品質への追求姿勢でした。口グセだったのは「ええもんつくんなはれや」。商売というものは品物に対する信用というのが、利八の哲学でした。
実験を繰り返して1916年に全国統一の標準球を作ったときも、利八は品質に徹底的にこだわりました。1938年に商品の研究開発を行うセレクト科学研究所を設置。科学的な視点から商品の開発を始めています。このように、いい商品を作れば、接待や値引きは要らない。結局は得であり、お客さんが付いてきてくれる――これが利八の考えでした。
利八の没後のことですが、美津濃が世界のミズノとなり、世界中のアスリートから製品が愛用されるようになったのはこうした美津濃製品の品質への信頼があってのことでしょう。昨年MLBでの3000本安打を達成したイチロー選手も、美津濃製のバットとグローブを愛用してきました。
ビジネスマンとしては、マーケティングやネーミングセンスなどもちろん重要です。しかし、同時に製品の品質を大切にすることを忘れてはいけません。日本でスポーツ業界を育て、ビジネスとして成立させた利八の教えではないでしょうか。