今では当たり前になった日本国内のウイスキー生産。その生みの親と呼ばれているのがニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝(1894~1979)です。2014年後期のNHK連続テレビ小説「マッサン」の主人公・亀山政春のモデルとなった経営者です。
政孝が成功した秘訣の1つは品質へのこだわりです。「もうかるより味を褒めてもらうほうがうれしい」というほど品質第一主義の経営者でした。現在の高品質な国産ウイスキーの原点に、政孝の徹底したこだわりがありました。
政孝は高校を卒業して大阪市の摂津酒造に入社すると、本場スコットランドで2年間ウイスキー造りを学びます。当時日本で造られていたのは、欧米のウイスキーをまねた模造ウイスキー。一応ウイスキーという名が付いていますが、外国製の酒精アルコールに砂糖や香辛料を加えた、ウイスキーもどきのアルコール飲料です。
「イミテーションのウイスキーではなく、日本で本格派のウイスキーを造りたい」との思いから、政孝はウイスキーの製造工程を熱心に学んでいきます。ウイスキー用の蒸留釜(ポットスチル)の内部構造を調べるため、専門の職人でさえ嫌がる釜の掃除を買って出ます。現地の技術者が根負けし、門外不出の扱いになっていた技術も夜間にひっそり明かされたといいます。
スコットランドで学んだ技術を元に、政孝は国内でウイスキー造りを進めていきます。大阪の洋酒製造会社寿屋(現・サントリー)に移ると、日本初の本格ウイスキー「白札サントリー」を手掛けます。そして1934年、理想のウイスキー造りのため北海道余市町で大日本果汁を設立しました。
社名が「果汁」になっているのは、ウイスキーの熟成には最低でも3~5年かかるため、当初はリンゴジュースを製造してつなぎにしたからです。政孝の品質へのこだわりはリンゴジュースでも発揮され、他社が果汁入り清涼飲料を造っていたところ、果汁100%ジュースしか製造しなかったため、高価になって売れ行きは芳しくなかったといいます。
1940年には余市で初めてのウイスキーが完成し、社名の「日」「果」を取って「ニッカウヰスキー」と名付けました。
終戦を迎えると、物不足と安価なことから三級のウイスキーが市場を席巻しました。三級というのは、原酒混和率0~5%のウイスキー。要するに、原酒がほとんど入っていないということです。これは品質を重んじる政孝には受け入れられないものでした。政孝は「三級のようなイミテーションウイスキーは造らない」と宣言します。
1952年、大日本果汁は社名をニッカウヰスキーに変更しますが、高価なニッカのウイスキーはなかなか売れません。会社が経営難に陥ったため、苦汁を飲んで三級(1953年の酒税法改正後は二級)のウイスキーを造りました。
政孝が心の底から納得できるウイスキーができたのは、1962年の「スーパーニッカ」でした。三級のウイスキー造りでたまっていた鬱憤を晴らすため、そして前年に亡くした妻リタにささげるため、政孝は息子の威(たけし)と共に余市蒸留所内の貯蔵庫と研究室に籠もり切って開発に没頭。最高品質の特級ウイスキー、スーパーニッカを完成させます。
値段は720ml入りで3000円。国産ウイスキーとしては極めて高価でしたが、売れ行きは好調。高度成長期で日本が豊かになっていった時代と重なり、スーパーニッカの高品質がウイスキーファンを育て、消費に拍車を掛けていったのです。
この後、ニッカは「ゴールド&ゴールド」「ノースランド」などの特級ウイスキーを発売。政孝が日本初の本格ウイスキーを造ったサントリーと並び、日本を代表するウイスキーメーカーに成長します。
欠点をフォローしてくれる人材が集まる
政孝が成功した2つ目の秘訣は、経営者として足りないところをフォローしてくれる人材に恵まれたことです。政孝は高品質のウイスキーを造り上げる名技術者でしたが、名経営者だったかというと少し疑問符が付きます。
政孝は豪放磊落(ごうほうらいらく)で、ウイスキーを毎晩3本空け、趣味の熊狩りで自分の身長より大きな熊を仕留めてくるといった逸話に事欠きません。このあたりのエピソードは、経営に直接関係ないのかもしれませんが、戦後の経営難のとき、融資の調達のため銀行に行っても支店長と大声でやり合い、「貸さないなら東京へ行って頭取と話し合いをする」とケンカしたエピソードも残されています。
酒問屋が集まった会合では、「我々は品質のいいウイスキーを出しているのに、売れないというのならそれでよろしい。ニッカウヰスキーが分からんような方々に売っていただく必要はありません」と言い放ったといいます。このときは、政孝の性格を知っていた出席者が、「ニッカの社長なら仕方ない」と好意的に受け止め、逆に売り上げが伸びたといいますが、冷や汗モノのエピソードです。
こうした政孝が率いるニッカが日本有数のウイスキーメーカーとなることができたのは、周りに政孝に足りない部分をカバーしサポートする人材がいたからです。有名なのは土井太郎、奥村三郎、弥谷醇平の3氏。土井は日本銀行統計局長から引き抜いた人物で経理を担当。奥村は元朝日麦酒常務で総務担当。そして、元マルキン醤油専務の弥谷は営業面を強化しました。
例えば、弥谷が入るまで、ニッカは宣伝にあまり力を入れていませんでした。弥谷はまず、宣伝を強化。そして、販売網の整備に取り組みます。ライバルのサントリーが消費者へのPRを重視しているところ、醇平は問屋・小売店との関係を重視。売る側との関係を構築することで販売を伸ばしていきます。
そして、ニッカのウイスキーは「品質はいいが高い」というイメージがあったところ、綿密な原価計算と売り上げ予測に基づき、価格を下げていきます。これでコアなウイスキーファンだけでなく、幅広いユーザーに商品が届くようになり、ニッカ発展の礎となりました。同様に、土井も奥村もそれぞれの立場で、懸命に政孝をフォローしたのです。
企業の発展のためには、エネルギーあふれる創業者のこだわりが原動力になるケースは多いでしょう。ただ、それだけで発展が続くとは限りません。優れた創業者でも、経営に必要なすべての能力を備えているわけではないからです。経営者に不足している部分を補う人物を見つけ、生かすことの大切さを政孝とニッカの足跡は示しているように思われます。