日本が抱える課題の1つに指摘されているのが、女性の社会進出です。経済協力開発機構(OECD)の「雇用アウトルック2016」によると、日本の25~54歳の女性の就業率は72.7%。加盟34カ国中23位と、低い水準にとどまっています。
女性の就業率とともに問題になっているのが女性管理職の少なさです。帝国データバンクが2016年に発表した調査によると、対象企業の管理職(課長相当職以上)に占める女性比率は平均6.6%。政府は、企業も含めて「社会のあらゆる分野において指導的地位に女性が占める割合を30%にする」との目標を立てていますが、遠く及びません。
こうした状況を鑑みて思い起こすのが、女性実業家の先駆けとして明治期に活躍し、女性の社会進出の象徴的存在となった広岡浅子です。
広岡浅子は、2015~2016年に放送されたNHK連続テレビ小説「あさが来た」のヒロイン・白岡あさのモデルとして一躍有名になりました。本連載の第1回で、ドラマでディーン・フジオカさんが演じて話題になった五代友厚を取り上げました(「大阪の父、五代友厚は本当に“イケメン”だった」)。今回は浅子について紹介します。
浅子は1849年、出水三井家の六代目当主・三井高益の四女として京都で生まれました。17歳のとき、両替商を営む大坂の豪商・加島屋に嫁ぎます。浅子の夫となったのは当主である第八代広岡久右衛門の次男・広岡信五郎で、幼い頃からのいいなずけでした。
加島屋の「御寮さん」(大阪の商人言葉で「女将さん」の意)になった浅子でしたが、嫁いで間もなく経営危機が訪れます。加島屋は諸藩に融資を行っており、これが大きな収入源になっていたのですが、1871年の廃藩置県により天保年間以前の債権がすべて帳消しになり、他の残っていた債権も、多くは無利息の長期債になってしまったのです。
本来、御寮さんの仕事は主人や使用人の世話で、店の表にはあまり出てきません。しかしこの危機を乗り越えるため、夫の信五郎、当主となった新五郎の弟・正秋と共に浅子は経営の前面に出ることを決意します。
嫁ぎ先を立て直し、新事業に次々と挑む…
新たに収入を得るには、明治政府や各県からの融資の要望に応えなければなりません。しかし、加島屋にあるのはわずかな手元資金と莫大な借財。そこで浅子は、借金返済の猶予や資金回収などの交渉に駆けずり回ります。ここで浅子が示した手腕はなかなかのものだったようです。例えば、加島屋は高松松平家から12万2600円の借り入れがありましたが、その4割を即納することで残り6割を帳消しにすることを認めさせたという記録が残っています。
浅子は、加島屋の資金繰りに奔走しただけではありません。加島屋の立て直しをしながら、新規事業を次々に立ち上げていきます。最初に手がけたのは石炭事業。「これからの日本には、米よりも石炭が必要」との思いからでした。所有した福岡県の潤野炭鉱は断層などにより開発が思うように進まず、撤退もやむを得ずといった状況に陥りますが、浅子は諦めません。自ら潤野炭鉱に乗り込み、現場を鼓舞します。
炭鉱は、男の世界。普通は商家の女将さんとは無縁のところですが、懐に護身用のピストルを忍ばせ、浅子は鉱夫たちが住む炭鉱で生活を共にしながら仕事を進めます。このあたりの浅子の行動力、バイタリティーには目を見張るものがあります。彼女の粘りが功を奏し、新しい石炭の鉱脈が見つかり、潤野炭鉱は豊富な産出量を誇る優良炭鉱に成長します。
また、1888年には銀行業に乗り出し加島銀行を設立。夫の信五郎が相談役、信五郎の弟の正秋が頭取に就任しました。大阪に本店を構えた加島銀行は全国に支店を展開し、有力都市銀行の1つとなりますが、これを指揮していたのは浅子でした。当時の日本では夫が健在である女性は戸主として法人の代表になれませんでしたが、浅子が加島銀行の頭取だと勘違いする人も出てくるほど経営に力を発揮しました。
1899年には経営危機に陥っていた真宗生命(浄土真宗の門徒を対象にした生命保険会社)の経営権を加島屋が取得する形で朝日生命を創業。朝日生命は1902年に護国生命・北海生命と合併し、現在もT&D保険グループの中核会社として活動を続ける大同生命保険となります。
大同生命保険の初代社長には正秋が就任しましたが、ここでも実際に辣腕(らつわん)を振るっていたのが浅子でした。後に「保険時報」は次のように評しています。「真宗生命を買収して朝日生命と改称し、本社を京都に移したのは誰であろう、広岡浅子である。保険業がまだ発達していないとき、一婦人の身を以て保険業が向上発展すべきことを予想し、会社を買収した見識は男子顔負けである」。
女子大設立で後輩の社会進出を支援
浅子は、このように女性実業家の草分け的存在として活躍しましたが、自らが実業界に出るだけでなく、女性の社会進出にも心を砕きました。1902年、アメリカの新聞「フィラデルフィア・プレス」は、成功した銀行家でありビジネスオーガナイザーとして浅子を紹介するとともに、「自身の銀行に女性を多く採用」し「最近、女性だけで運営する部署を新たに設けた」と書いています。
その後「女性も男性と同じように教育を受けるべき」との思いから、女子大学の設立に奔走。伊藤博文をはじめ政財界の大物に次々と協力を要請し、発起人組織を立ち上げます。そして1901年、日本で初めての組織的な女子高等教育機関、日本女子大学校(現・日本女子大学)が創立を迎えました。
浅子は「たとえ女子であっても、努力さえすれば男子に劣らぬ仕事ができるものである。また力があるものである」という信念を持っていました。そしてその信念に基づいて女性の社会進出を促し、自らも実業家として男性と変わることなく活動してきました。
浅子が活躍した明治時代から、大正、昭和を経て、すでに100年以上の時が経過しています。しかし、それだけの時間を経て女性の社会進出は進んだのかどうか。ダイバーシティの重要性が叫ばれてはいますが、冒頭で紹介した通りいまだ不十分です。働き方改革の中で、見つめ直してみるべきなのかもしれません。