TBSテレビの日曜劇場で放映されている「陸王」が話題になっています。このドラマは老舗の足袋製造業者がランニングシューズの開発に挑戦するという内容で、池井戸潤氏の同名小説を原作としています。陸王の公式ツイッターでは、特定のモデルはなくオリジナルストーリーであると公表されていますが、実際にスポーツシューズの開発に執念を持って取り組み、世界に認めさせた人物がいます。スポーツシューズメーカー・鬼塚(現・アシックス)の創業者で、世界的に人気を博しているスポーツシューズ・オニツカタイガーの開発者でもある鬼塚喜八郎です。
喜八郎は1918年、鳥取県で生まれました。中学校卒業後に入隊し、7年間の軍隊生活を経験したところで終戦を迎え、神戸で商事会社に就職します。
社会人としてのキャリアを戦後間もない神戸でスタートさせた喜八郎青年でしたが、就職した商事会社に喜八郎は失望します。会社は商事会社を名乗っていたものの、仕入れたビールを不正に横流しするなど、実際は闇商売で大きな利益を上げていました。また社長は会社を私物化し、私利私欲に走っていたそうです。働き者の喜八郎は常務になっていましたが、社長と衝突。結局社長に愛想を尽かし、3年でこの会社を辞めてしまいます。
終戦後の神戸の街に希望をもたらしたい
しかし、勢いよく会社を飛び出したはいいものの、何をやればいいのか喜八郎にはアイデアがありません。目の前に広がっているのは、終戦直後の神戸の現実です。空襲を受けた神戸では、身寄りのなくなった青少年が非行に走っていました。麻薬や覚せい剤に手を出す者が珍しくなく、進駐軍を相手に売春を繰り返す少女もいました。
こんなことで、これからの日本はどうなるのか。自分は、新しい日本のために青少年の教育に一生をささげよう。喜八郎は決意します。しかし、軍隊経験のあった喜八郎はGHQにより教職などの公職に就くことが禁止されていました。いったい、どうすればいいのか……。行き詰まりを感じていた折、戦友の1人だった堀公平と話したことが、喜八郎の運命を大きく動かします。
兵庫県教育委員会で体育保険課長を務め、スポーツと教育に関して深い見識を持っていた堀は、次のように喜八郎に話しました。
「『もし神に祈るならば、健全なる身体に健全なる精神があれかしと祈るべきだ』(※)という言葉がある。スポーツで鍛えることで青少年は立派に育つ。教師になれないのなら、スポーツの振興に役立つ仕事をしたらどうだろうか」
※ デキムス・ユニウス・ユウェナリス(古代ローマ時代の風刺詩人)の言葉
堀の話を聞いて思い立ったのが、シューズの製造でした。シューズはあらゆるスポーツに欠かせません。しかし当時はズック靴か地下足袋(じかたび)が用いられ、本格的なスポーツシューズはほとんどありませんでした。青少年が全力で打ち込み、記録が伸びるようなシューズを作る。シューズを通じてスポーツを普及させ、青少年を立ち直らせる。喜八郎が使命感に目覚めた瞬間でした。
第1号の製品はバスケットボールシューズ…
1949年、スポーツシューズ専業の鬼塚株式会社を設立。「最初に高いハードルを越えられれば、その後のハードルも越えられる」と考え、最も難しいといわれていたバスケットボールシューズの製造から事業を始めることにします。しかし、シューズへの強い思いはありますが、製造に関してはまったくの素人。どんな靴を作ればいいのかが分かりません。連日深夜まで作業をして試作品を作り、バスケットボールの強豪チームだった神戸高校のバスケット部に持参。最初は練習場で球拾いをしながら選手の足の動きを見て、1人ひとりから意見を聞いて改良を重ねました。
手探りの開発の末、50年にバスケットボールシューズの第1号を発売。翌年にはタコの吸盤にヒントを得た吸着盤型バスケットボールシューズを発売し、スポーツシューズメーカーとしての第一歩を踏み出します。56年には、喜八郎のシューズブランドである「オニツカタイガー」のトレーニングシューズがメルボルンオリンピック日本選手団に正式採用され、スポーツ界での認知が高まります。
そして、喜八郎の大きな突破口になったのが次に手掛けたマラソンシューズでした。当時は、マラソンを走るとマメができて当然という時代。マメができないシューズがあればもっといい記録が出るはずです。しかしそのアイデアを当時のトップランナーに話すと、「そんなシューズができたら、逆立ちしてマラソンしてみせますよ」と相手にされません。それほど常識外のアイデアでした。
東京五輪で注目を集めたオニツカタイガー
しかし、困難に挑むことを良しとする喜八郎は研究書や文献を読みあさるなどして、研究に没頭します。そうした中で、大学の医学部の教授からマメは足と地面との衝撃摩擦によるやけどの現象だという話をされました。
だったら、冷やせばいいのではないか。自動車の水冷式にヒントを得て、靴底に水を入れてみます。しかし靴が重くなるのと、足がふやけるためうまくいきません。もちろん、こんなことでめげる喜八郎ではありません。今度は空冷式。シューズに目の粗い布を使い、前と横に穴をいくつも開けて風通しをよくします。こうすると着地したときに熱い空気が吐き出され、足が地面から離れると冷たい空気が流れ込みます。ふいごの原理で、シューズの中の熱が排出されるのです。
出来上がった空気入れ替え式のシューズを「逆立ちしてマラソンしてみせますよ」と言った選手に試してもらったところ、完走しても足の裏が少し赤くなる程度でマメはできませんでした。
60年、マラソンシューズのマジックランナーを発売。そして翌61年に行われた毎日マラソンで当時のトップランナーだったアベベの宿泊先を訪れ、履いてもらえるよう説得。アベベは喜八郎のシューズを履いて優勝します。
機能に優れたオニツカタイガーのシューズは選手の間で評判になり、愛用者が増えていきます。64年の東京オリンピックでは、体操、レスリング、バレーボール、マラソンなどさまざまな競技の選手がオニツカのシューズを履き、オニツカのユーザーが金メダル20個、銀メダル16個、銅メダル10個の計46個を獲得。オニツカのシューズは世界的な評価を得るようになります。
69年には、米国の販売代理店BRS社(現・ナイキ)がオニツカタイガーを販売。77年にはスポーツウエアのジィティオ、ニットウェアのジェレンクと合併し、総合スポーツ用品メーカーを設立。喜八郎が初代社長に就任します。社名は、喜八郎が創業前に堀から聞いた「もし神に祈るならば、健全な身体に健全な精神あれかしと祈るべきだ」のラテン語"Anima Sana In corpore Sano"の頭文字を取り、ASICS(アシックス)となりました。
アシックスができてからはアシックスのブランドで製品を展開し、オニツカタイガーは使われない時期が続きました。その後、2002年にオニツカタイガーを復刻させたところ、ヨーロッパでブームになります。03年には映画「キル・ビル(Kill Bill)」の中でオニツカタイガーの黄色いシューズが使われ、ファッションアイテムとしても世界から注目されるようになりました。07年に喜八郎はこの世を去りますが、オニツカタイガーは世界から愛され続け、現在、海外で20を超える直営店が展開されています。
事業を興せば、必ず危機はやってくる
商事会社を辞めた青年が神戸でゼロから始めたシューズメーカーが世界的なブランドに成長していったわけですが、ドラマ・陸王のこはぜ屋のごとく、その道のりは平たんではありませんでした。
まず、自分自身が結核に倒れ、生死の境をさまよいます。奇跡的に回復した後も、商品開発は試行錯誤の連続でしたし、60年代には経営危機を迎え、約束手形の期限繰り延べでなんとか危機を脱したこともありました。
会社の成長過程では、市場の中の一点に集中する、消費者のトップ層をターゲットにするといった喜八郎の戦略が功を奏したことも間違いないでしょう。しかし、成功の一番の要因は志の強さを忘れてはなりません。
喜八郎自身、「事業を興せば、必ず危機は訪れるんです。その危機を乗り越えられるかで、事業家としての素質が決まります」「志を持った人は、土壇場に強い。困難にブチ当たっても倒れない。これをやり遂げるまでは、死ねんぞっていうくらいの気迫がある」と言っています。
シューズの開発・製造・販売を通じてスポーツを普及させ、これからの日本のために青少年を健全に育てたい。喜八郎が最初に抱いた使命、志の強さが、商品開発の困難、経営上の危機を乗り越える原動力になっています。
スポーツシューズ業界は、世界的な巨大スポーツメーカーがしのぎを削る激烈な業界です。その中でオニツカタイガーが確固たる存在感を放っているのは、他のメーカーにはない何かをユーザーが感じているからでしょう。モノに製作者の精神が宿るとしたら、ユーザーはオニツカタイガーにレトロでスタイリッシュなデザインだけでなく、他のメーカーにはない志を無意識のうちに感じているのかもしれません。
このような喜八郎の行動から見ると、エネルギッシュなワンマン経営者を想像されるかもしれません。しかし、実際は腰の低い真面目人間だったようです。そして、社員を非常に大事にしました。創業10周年の時に、鬼塚家の所有株式の70%を社員に分与したというエピソードがあります。そんな喜八郎の人生には陸王以上の教訓が詰まっているような気がします。