1980年代前半まで東京の代表的なビジネス街といえば、千代田区の丸の内、大手町、有楽町といったエリアか、中央区の日本橋、京橋といったエリアでした。有楽町から日比谷への流れで港区も新橋や虎ノ門エリアくらいまではビジネス街になっていましたが、そこから南は著名な企業がオフィスを構える大きなビルもそれほど多くありませんでした。
それが、今では一変しています。従来は商業エリアの色彩が強かった港区の六本木や赤坂に巨大なオフィスビルが建ち、そこにはIT企業や外資系金融機関などが本社を構えています。千代田区や中央区のオフィス街が昔からの大企業が本社を置くイメージなのに対して、勢いのある企業が多いイメージさえあります。
泰吉郎は1904年、西新橋の米穀店に生まれました。両親は家業の傍ら差配(貸家の管理業)を手掛けており、30軒ほどの面倒を見ていました。父の磯次郎は人情味あふれる大家で、店子(たなこ)の子どもの授業料を負担したり、金回りが良くなった店子には倹約を説いたりなどしていたといわれています。
そんな中、森磯次郎は徐々に借地権付建物の買収を進め、本格的に不動産賃貸業に乗り出していきます。ところが1923年に関東大震災が起こり、森家は自宅も貸家も焼失してしまいます。
この未曽有の災害に対し、国は借家を失った人は自分で家を建ててよいという救済策を打ち出しました。しかし、磯次郎の店子は「これまでお世話になったので、森さんのほうで家を建てて貸してほしい」と自分たちで家を建てようとしませんでした。やはり、店子との緊密な関係を感じさせるエピソードです。こうした磯次郎の店子の関係を間近で見ていたことが、のちの泰吉郎に影響を与えたことは、想像に難くありません。
また、泰吉郎は災害に際して崩壊や焼失の危険性が高い木造家屋の代わりに、コンクリートのビルを建てることを磯次郎に進言しています。不動産デベロッパーとしての資質はこの頃すでに出来上がっていたのかもしれません。
泰吉郎は1928年に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業すると、関東学院講師を経て京都高等蚕糸学校教授に就任し、しばらく学究の道を進みます。終戦後、京都から戻り、横浜市立大教授を務めながら、家業を手伝い始めます。
そして1955年に森不動産を設立。虎ノ門の交差点近くに西新橋1森ビルと西新橋2森ビルを完成させます。1959年には教授職を辞し森ビル株式会社を設立、社長に就任しました。すでに50代半ば、通常のサラリーマンなら定年退職も視野に入ってもおかしくないタイミングです。
脳裏には戦後に焼け野原となった東京、そして関東大震災後の荒廃があったのでしょう。泰吉郎は耐火性のあるオフィスビルを地元の新橋・虎ノ門地区に集中的に建設し、新たなビジネス街を造っていきます。泰吉郎のビルの名前には「第○森ビル」と数字が付けられたため、「ナンバービル」と呼ばれました。
1960年代に入ると、高度経済成長に伴ってオフィス需要が増加。泰吉郎は銀行から積極的に融資を受け、物件を増やしていきます。1970年ごろには資本金7500万円に対して借入金が58億円まで膨らんだこともありましたが、都市部でのオフィス需要は旺盛で順調に事業を拡大していきました。
1978年には原宿のランドマークとなっているラフォーレ原宿、1986年には大規模都市開発の先駆けとなった「アークヒルズ」を赤坂にオープンさせ、森ビルの開発力は全国にとどろくこととなりました。この年、森ビルが所有する賃貸ビルは73棟あり、延床面積は約100万平方メートルへと広がり、不動産業界第3位の規模を誇るまでになりました。そして、さらなる大規模な都市開発「六本木ヒルズ」の計画が進む中、1993年にこの世を去りました。
拡大路線を突き進んだ原動力とは
森ビルを育てた経営者としての泰吉郎について、よく指摘されるのは「先見性」です。
戦争で東京が焼け野原になったとき、父の磯次郎は見切りをつけて土地を売っていました。泰吉郎はそれを買い戻しただけでなく、売りに出されていた土地、抵当流れの土地などを次々に購入し、それが後の森ビル発展の基礎になります。60年代から70年代にかけて敢然(かんぜん/思い切って物事に当たること)と土地を買い進めていったのも、都市部でのオフィス需要がまだ増えることを見越してのことでしょう。
実はその資金も先見性のたまものでした。終戦直後、繊維需要が急増すると見た泰吉郎は人絹(レーヨン)を買い、その後相場が急騰。元手が何十倍にもなり、それが新橋・虎ノ門の土地を購入する資金になりました。
もちろん、泰吉郎の成功は先見性だけによるのではありません。同じように東京都心のオフィスビル不足を感じて、所有していた土地に貸しビルを建てた個人や企業はたくさんあります。しかし、その多くは以前から所有していた土地にビルを建てて賃貸収入が入ればそれで満足してしまい、泰吉郎のように街を再開発して巨大ビルを造るところまで突き詰めることはありませんでした。
泰吉郎がこうした拡大路線をとった背景には、関東大震災で荒廃したり、戦争で焼け野原になったりした東京をより強く復興させたいという使命感と執念があったのではないでしょうか。終戦後、京都から戻った泰吉郎は、荒廃した東京の街を見て「ゆくゆくは焼け跡にビルを建てるつもりだ」と宣言したという逸話が残っています。その志を忘れず追求したのが泰吉郎の人生だったのでしょう。
さらに泰吉郎の成功には、人間関係を重視する姿勢が大きく関与しているようにも思われます。例えば、再開発事業を進めるに当たっては、泰吉郎は地権者全員の同意を得ることを基本としました。森ビルが最初に手掛けた大規模再開発であるアークヒルズの計画地には500人近い地権者がおり、当初は大きな反対運動が起こりました。
そこで泰吉郎は、地権者1人ひとりと対話を重ね、理解を求めていきます。この過程に徹底して時間をかけ、計画の立ち上げから着工まで約14年をかけて協議を行いました。最終的には、地権者と再開発組合をつくり事業化しています。この姿勢は、泰吉郎没後に竣工した六本木ヒルズ、表参道ヒルズにも受け継がれました。
泰吉郎は社員との関係も重く見ていました。事業家になる前、学者として経営史を研究していましたが、蚕糸業(さんしぎょう)の大家族主義経営に着目。全寮制の下、作法や規律などを教え、修養(しゅうよう/特性を磨き、人徳を高めること)と社会奉仕を鼓吹(こすい/励まし、元気付けること)した蚕糸企業を評価します。
こうして泰吉郎が導き出した人材育成方法の1つとして有名なやり方が、新入社員に1年間の社員寮生活を義務付けることです。なぜなら「優れた企業は優れた学校と同様に人間を育てるもの」と考えたからでした。
先見性に加え、こうした使命感と人間関係重視の経営が日本を代表するデベロッパーに森ビルを成長させ、困難の伴う大規模開発計画も成功させる原動力となったのでしょう。