イトーキの創業者・伊藤喜十郎は1855年、大坂(大阪)・船場の両替商の六男として生まれました。実家が三井家の分家筋に当たるため、創業間もない三井銀行に入社。会社員として生活を送っていました。そんな喜十郎の一大転機となったのは、1890年3月、上野で開催された第三回内国勧業博覧会に見学に行ったことでした。
博覧会には、興味深い発明品が多数展示されていました。「こんなにいいものがたくさんあるのに、なぜ市場に出ないのか」。喜十郎は、発明特許品を商品にして普及させる事業を思い立ちます。発明家にいいアイデアがあっても、商品化する費用や販売ルートがなく、結局アイデア倒れになっているケースが少なくありませんでした。これは社会の損失だと考えたのです。
喜十郎は銀行を辞め、退職金で東京・木挽町に事務所を開設。「世の中の役に立つよう、あなたの発明を商品にさせてください」と各地の発明家に声を掛け始めます。そして同年12月、伊藤喜商店を大阪の高麗橋に創業しました。発明特許品の販売を事業とする商店です。
ただ、この事業には失敗も多くありました。氷で冷やせば長時間冷たさが持続するコンニャク製の水枕は、氷を入れたゴムの水枕のほうが便利ということで受け入れられませんでした。ランプのすすを掃除するランプ掃除器も、電燈の普及により需要がほとんどなくなります。しかし、喜十郎は「卵を100産んで3つかえったら大成功」の精神で新しい商品に挑み続けます。
多くのチャレンジの結果、ようやくヒット商品となったのが金庫でした。それまでお金は木製の家具や箱などにしまわれることが多く、火事になったときに焼けてしまう危険性がありました。そこで、日本初となる本格的な金庫を内国勧業博覧会に出品していた竹内善次郎という発明家を喜十郎は口説き落とし、商品化への道筋をつけました。そして多額の借金をして善次郎のために生産設備を整え、1908年、金庫の量産化に成功します。
喜十郎は金庫がヒット商品になると確信していましたが、当初、売れ行きは芳しくありませんでした。しかし、火事に遭った商家が伊藤喜商店の金庫を使っていたためお金が無事だったことが新聞に報道され、それがきっかけとなり金庫は飛ぶように売れるようになりました。
こうなると好循環が生まれ、ヒットが新たなヒットを呼ぶようになります。善次郎の金庫に続き、商家向けに、発明家の石田仁蔵・音三郎親子が手掛けた金銭出納機の商品化に取り組みます。現在、スーパーなどで使われているレジスターの元祖のような機械です。
それまでも日本で出納機は使われていましたが、基本的には海外からの輸入品だったので値段が高く、しかも故障すると部品の取り寄せに時間がかかりました。気軽に導入できるものではなかったのです。それに対して、石田親子は、売上金管理や防犯など必要最小限の機能に絞り、安価で正確な機械を作ることに成功。1913年、銭勘定が合う機械ということから「ゼニアイキ」という商品名を付け、伊藤喜商店はこの金銭出納機を売り出します。
安くて必要な機能は備えているのですから、売れないはずがありません。関西圏だけでなく全国的なヒット商品となり、伊藤喜商店の名前は広く知られるところとなります。ゼニアイキは1927年には通算1万台を突破、戦後も本格的なレジスターが登場するまで全国の中小企業で利用されるほどのロングセラーになりました。
金庫とゼニアイキのヒットにより、喜十郎は山ほど抱えていた借金を返済。そのほかにも謄写版、強力水揚げ機、箱型かつおぶしけずり器など、発明家と組んでユニークでイノベーティブな商品を次々に販売していきました。
こうした発明品の製造・販売のほか、伊藤喜商店はゼムクリップやホチキスなどそれまで日本になかった事務用品の輸入も手掛けました。金庫やレジスターに加え、こうした商品も取りそろえた結果、「新しい事務用品なら伊藤喜」と評価を受けるようになりました。愛称は「平野町のハイカラ屋」。すっかり時代の先端を行く存在として見られるようになったのです。
足りないものを補い合うアライアンス
発明家との協働で事業を軌道に乗せた後、伊藤喜商店は安全かみそり、手提げ金庫を手始めに自社で発明し、特許を取得して製造・販売する形へと事業を転換していきます。そして1925年、大阪市東区広小路に工場を新設。鋼製保管庫、ロッカーなど自社製の鋼製家具の製造を始め、これが現在のイトーキの事業につながります。
1933年、伊藤喜商店は株式会社に改組し、喜十郎は取締役社長に就任。自ら興した商店が事務用品メーカーとして成長する姿を見ながら、1936年にこの世を去りました。
現在のイトーキへと発展していくことになる伊藤喜商店の創成期を見て気付くのは、アライアンスの大切さです。喜十郎は「優れた発明を商品として広めたい」という情熱があり、行動力や商品化するノウハウはあったものの、自身が優れた発明ができたわけではありませんでした。
一方、新しいものを考え、開発する能力に秀でた発明家であっても、それを世の中に広める情熱や行動力、商品化するノウハウには欠けているケースが少なくありません。その部分を喜十郎がカバーしたからこそ、優れた商品を普及させることができたのです。欠けている部分を補い合うアライアンスが成功につながりました。
現在も革新的な商品やサービスを開発し、普及させるため、多くの企業が努力を続けています。しかし、自社だけでできることには限りがあります。得意、不得意を認識して、外部の力を借りることで、道が開ける可能性が高まります。もちろん、重要な部分に関して自社開発にこだわることも悪いことではありません。ただ、組織が小さい段階で何から何まで自社でやるのは無理があります。スタートアップの際には柔軟に外部の力を活用することも非常に大切だと思います。