孫吉は1888年、滋賀県伊香郡に7人兄弟の6番目として生まれました。実家の農作業を手伝いながら成長した孫吉少年は、16歳の時に「1万円の大金をためてみせる」と決意し、大阪に奉公に出ます。
夢を抱いて大阪に出た孫吉でしたが、どうにも奉公が長続きしません。メリヤス屋、せっけん屋、木綿問屋、写真の台紙屋、鉄工所など職を転々とします。そして2年ほどがたった頃に体調を崩し、大阪にいた長兄・栄太郎の家でしばらく静養することになりました。孫吉、1度目の挫折です。
しかし、この静養が思わぬ転機になりました。孫吉は気分転換のため、時々堂島川に釣りに出掛けました。川の近くには大阪瓦斯(現・大阪ガス)の作業事務所があり、作業員たちと話を交わすようになります。そこで親しくなった現場監督に雇ってほしいと願い出てみると、受け入れられ、採用が決定しました。当時、大阪ではガスの供給開始が間近に迫っており、それに伴うガス配管工事が盛んに行われていたためです。
こうして働き始めた大阪瓦斯で、孫吉はガス発動機と出合います。当時、工場では主に蒸気機関を動力として使っていました。そこにガスの供給が始まったため、ガス発動機の導入が始まったのです。ガス発動機は設置するにも蒸気機関のように広いスペースを必要とせず、操作も簡単だったことから、町工場が次々に購入しました。孫吉は、ガス配管工事だけでなく、ガス発動機の設置も行うようになったのです。
ただ、大阪瓦斯の工賃だけでは目標とする「1万円の貯金」には届きそうにありません。そこで、孫吉は、ガス工事の経験を元に独立を決意しました。ゴム管・ガス器具の販売、ガス発動機の据え付け工事などを請け負う山岡瓦斯商会を1907年に開業したのです。
当時のガス器具は故障することも多く、山岡瓦斯商会にはガス器具修繕の仕事が次々に舞い込みます。そして、それ以上に好評を博したのが中古ガス発動機の販売でした。故障や不具合で使われなくなった中古のガス発動機を買い取って修理し、新品同様に塗装を施して、新品の約半値で販売したのです
整備がきちんとされている上、設置工事を無料で行ったこともあり、中古ガス発動機は山岡瓦斯商会の人気商品になりました。また、都市ガスが普及していない地方では吸入式のガス発動機(燃料ガスを自給できるようガス発生装置をセットにしたタイプ)を販売。中古ガス発動機の販売と吸入式ガス発動機の販売を両輪とし、山岡瓦斯商会は順調に事業を拡大していきます。
そして1912年、それまでは借り受けの倉庫を工場としていましたが、自前の修理工場を新たに開設。山岡発動機工作所を創業しました。このときがヤンマーの創業とされています。山岡発動機工作所は引き続き中古ガス発動機の販売と吸入式ガス発動機の販売で事業を伸ばしていきます。そして1914年の第一次世界大戦の勃発とともに、日本から欧州への物資の輸出が増大。ガス発動機の需要も増えました。
しかし、この好景気も第一次世界大戦終戦で終わりを告げました。日本の輸出は激減し、不況に。工場の閉鎖が相次ぎ、ガス発動機の需要は一気に衰えました。山岡発動機工作所の業績も落ち込み、孫吉は窮地に追い込まれます。東京出張所を設けるなど回復策を打ちますが、功を奏しません。そして1920年、事業の休止を決断。故郷の滋賀に戻ることにしました。孫吉2度目の挫折です。
滋賀では何もすることがなく、ブラブラするだけの毎日。3カ月ほどで大阪に戻りましたが、目の前にあるのは売れ残ったガス発動機の山。何の光明も見いだせません。そんな中、孫吉は大阪瓦斯時代の同僚を訪ねて香川県の丸亀に行きます。これが、新たな出発のヒントになりました。
農業用の商品を次々と発売するも、トラブルに
丸亀の同僚は、山岡発動機工作所から買ったガス発動機を石油発動機に改造し、籾(もみ)すり用の臼(うす)につなげていました。これを見た瞬間、孫吉はひらめきます。子どもの頃から実家の農家を手伝っていた孫吉には、農作業の大変さがよく分かっていました。「軽く、持ち運びに便利な石油発動機をつくって農作業に使えるようにすれば、農家の役に立てるのではないか」。
大阪に戻った孫吉は、石油発動機の開発に着手します。そして1921年、横形の石油発動機を完成。豊作の象徴である「トンボ」を商品名にすることを考えましたが、すでに商標登録を済ませている会社があったため、トンボの王様である「ヤンマ」にちなんで「ヤンマー変量式石油発動機」としました。
続いて、丸亀で発想した「発動機で農家を助ける」を実現すべく、石油発動機で籾すりができるようにした動力籾すり機を完成。駅前で実演したところ大評判となり、各地から注文が舞い込みます。用水路から水をくみ上げるための「ヤンマーバーチカルポンプ」も開発。重労働である水のくみ上げが簡単にできるようになるとあって、バーチカルポンプと変量式石油発動機のセットは需要が大きく、ヒット商品になりました。
新聞広告や博覧会への出品でヤンマーの石油発動機は全国的に知られるようになり、東京・九州・北海道に出張所を開設。アジア市場にも進出し、漁船用発動機の開発にも乗り出すなど、事業は拡大していきました。
しかし、好事魔多し。当時は素材の強度や加工技術が十分でなく、石油発動機の事故が多発してしまいます。原因は使い方によるものも多かったものの、メーカーとしての責任もあり、孫吉は自信を失いました。
さらに、1929年に始まった世界恐慌の波が日本にも押し寄せ、昭和恐慌が始まります。不況を背景に労働争議が活発になり、山岡発動機工作所でもストライキが発生。半年にわたり生産ができない事態となってしまいました。そんな苦境の中、東京支店を任せていた親戚が無断で他の事業に手を出して失敗し、多額の借金を抱えてしまいます。その結果、東京支店が差し押さえにあってしまいました。
トラブルが重なり、さすがの孫吉も心身共に疲弊してしまいます。会社が倒産したわけではありませんが、3度目の挫折といっていいでしょう。その結果、「何もかもが嫌に」なった孫吉は、気晴らしのために欧米旅行に出ます。そしてこれがまた、思いも寄らず転機になりました。
40代半ばで小型ディーゼルエンジンの開発に挑む
独ライプチヒの見本市を訪れたときのこと。そこで流れていたディーゼルエンジンのPR映画から孫吉は目が離せなくなりました。燃費がよく、重油などの低質油を燃料とするので経済的で、電気系統が要らないため安全性が高く、頑丈で耐久性に優れている。こうしたディーゼルエンジンの特長に、孫吉は魅了されていました。
「エンジン一切から手を引くつもりでドイツに来たのに、また気が変わってエンジンから離れられなくなった」とのちに述懐していますが、このとき、40代半ばだった孫吉の事業への情熱は衰えていなかったのでしょう。帰国すると、可搬性に優れ、農業用に使える小型ディーゼルエンジンの開発に着手。1年5カ月の苦闘の末、1933年の年末に完成させます。世界初の小型ディーゼルエンジンを完成させます。
昭和恐慌からの回復とも相まり、小形ディーゼルエンジンは好調な滑り出しを見せました。相次ぐ受注から小型ディーゼルエンジンの将来性を確信した孫吉は生産体制を大幅に強化、1937年には石油発動機の生産をやめ、ディーゼルエンジンの専門メーカーになることを宣言します。
戦後はさらなる軽量化を図り、1952年には重量55㎏と、世界最小クラスを実現した横形水冷ディーゼルエンジン「K1形」の開発に成功。同年社名を「ヤンマーディーゼル」とします(2002年に「ヤンマー」に改称)。また中形・大形ディーゼルの開発も進め、ヤンマーディーゼルは農業用・舶用のディーゼルエンジンメーカーとして確固たる地位を築きました。
農業の機械化が進む時代の中、農業用ディーゼルエンジンの売り上げは大きく増進。農業機械の総合メーカーとしての礎を築き、1962年に創業者である孫吉は世を去りました。
事業を発展させた創業者は、誰もが幾度も壁にぶつかり、それを乗り越えています。孫吉も前述の通り3度も挫折を味わっています。しかし、孫吉はそのたびに再出発のヒントを見つけ、再起に挑みます。そして「3度目の正直」で日本を代表するメーカーをつくり上げました。
成功することを諦めてしまうか、再びチャレンジするか、挫折を味わったときこそが大きな分かれ道です。米国の発明王エジソンの名言に「我々の最も大きな弱点は、諦めることにある。成功するための最も確かな方法は、常にもう一度だけ挑戦してみることだ」というのがあります。この言葉を見事に体現したのが孫吉の人生だったといえるでしょう。
壁に行き当たり、挫折した後、再チャレンジする方法は1つではありません。孫吉のように、いったん壁から離れて新しいヒントを見つけてもいいでしょう。力を付けてもう一度、正面から取り組み、乗り越える方法もあります。いずれにしても、成功したければ、諦めることなく挑戦を続けること。孫吉の足跡を見ていると、この大切さが実感できるでしょう。