「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助をはじめ、異名が付いた名経営者はたくさんいます。そうした中で、ちょっとユニークな異名で呼ばれたのが、衛生・健康用品のリーディングカンパニー、ライオンの創業者である小林富次郎です。「そろばんを抱いた宗教家」といわれた富次郎。ちょっと矛盾を感じるフレーズですが、見事に彼の人となりを表しています。
富次郎は1852年、武蔵国(現・埼玉県)に生まれました。4歳の時、両親の郷里である越後国(現・新潟県)に戻り、16歳まで家業の酒造業と漁業を手伝いました。酒造業が不振に陥ったため、東京のせっけん工場に同郷の仲間と共に入社。その後、海外への展開を夢見て神戸のマッチ製造の会社に入りました。
この時代に出会ったのが、キリスト教でした。当時はまだキリスト教が警戒心を持って見られていた時代です。友人に誘われキリスト教の演説会に行ったところ、演説会を妨害しようとする若者が現れて会場は騒然となりました。
そのとき、クリスチャンの大男が割って入ってきました。当然、若者をつまみ出すかと思って富次郎が見ていると、その大男は「お願いです。静かにしてください」と丁寧に頭を下げ始めたのです。感動した富次郎はこれをきっかけに教会に通い始め、洗礼を受けてクリスチャンになります。
一方、富次郎は事業にも情熱を注ぎます。マッチの軸を製造して世界に輸出しようと、富次郎は宮城県の石巻に工場を造りました。東北で良い木を育て、フランスから導入した最新鋭の機械で質の高いマッチの軸を生産しようとしたのです。
ところが操業直前、大洪水が石巻を襲います。全財産をはたいて購入した機械、買い付けてあった1年分の原木が、すべて流されてしまいます。しかも、流された原木で地元の人の家が壊れてしまい、富次郎は非難の矢面に立たされました。
商品販売と慈善団体への寄付を結びつける…
すべてを失ったばかりか、地元の人に多大な迷惑をかけてしまった――。富次郎はもはや生きていられないと思い詰め、着物の袂(たもと)に石を詰めて橋の上から川に飛び込もうとします。
これでこの世との別れかと思ったそのとき、ある言葉が頭の中に響きました。
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」
これは、新約聖書の一節で、神戸で洗礼を受けた牧師から送られてきたハガキに記されていたものでした。
この言葉に励まされて自殺を思いとどまった富次郎は東京に戻り、1891年、小林富次郎商店を神田で創業します。当初はせっけん・マッチの原料の取り次ぎを行っていましたが、製造に乗り出し、1893年に化粧せっけんと洗濯用せっけんを発売。1896年には歯磨き粉の「獅子印ライオン歯磨」を発売しました。
当時は歯磨き粉で歯を磨く習慣がつき始めており、すでに多くの歯磨き粉が売り出されていました。後発の富次郎は粉末をきめ細かくし、イギリスから香料を取り寄せて味をよくするなど品質を追求。キャッチーな「獅子印ライオン歯磨」というネーミングとともに、富次郎の歯磨き粉はヒット商品になります。
事業が成功すると、富次郎は事業の中でキリスト教的な博愛精神を発揮します。その代表例が「ライオン歯磨慈善券付袋入」のアイデアです。この歯磨き粉の袋には「慈善券」が印刷されていました。購入した人は、使い終わった空袋を自分が支援したい慈善団体に寄付します。その団体は空袋を小林富次郎商店や販売店に持って行けば、1袋1厘でお金に引き換えるという仕組みです。
このアイデアは、広告戦略との非難も浴びました。しかし、富次郎は「人は自分の利欲のためにだけ生活するのではない。事情が許す限りは公益を図り、博愛慈善の心掛けを必要とする」と動じません。結局、袋入りのライオン歯磨は大きく売り上げを伸ばし、地方都市に20数店だった特約店の数は170店ほどに増えることになります。
慈善券は1910年、富次郎が没した後も続けられ、1920年に終了するまでに現在の価値で30億円近い金額の寄付を行いました。購入した人が慈善団体に持って行かなかった袋の寄付金も、ライオンが全国の養育院などに分配を行いました。慈善券が終了した後の1921年には、日本で初めて児童専門の歯科診療を目的としたライオン児童歯科院を設立するなど、同社の社会貢献活動は引き続き行われました。
強い意思があって初めて成し遂げられる
富次郎が1891年に小林富次郎商店を創業してから130年近くが経過していますが、現在もライオンの社是には「愛の精神の実践」という言葉が入っています。富次郎のキリスト教的精神から受け継がれているものといっていいでしょう。
富次郎の足跡を追って感じるのは、「依って立つ信念」を持っていることの強さです。富次郎の場合、それはキリスト教の教えによるところが大きかったと思われますが、それ以外の場合もあるでしょう。「人生において必ずこれを成し遂げる」という強い意思も、「これを成し遂げて社会に貢献する」という希望も依って立つ信念になり得えます。
依って立つ信念が、ビジネスにおける軸になり、同時に人生の軸にもなる。逆にいえば、そうした信念がないと厳しいビジネスや人生を耐え抜き、成功することはできない。そうしたことを、慈善事業とビジネスの両立に成功した富次郎が教えてくれているのではないでしょうか。