経済大国と呼ばれ、グローバルビジネスの展開・浸透に力を入れている日本の立場からすれば、「女性力活用が遅れている国」や「男尊女卑の意識が根強く残る文化」というイメージを持たれることは、(特に海外企業や外国人顧客相手の)ビジネス展開を考える上では大きなマイナス要素です。
この中で特に問題なのは、「男尊女卑」「男性優位意識」「女性蔑視」といった、かつての日本に定着していたあしき慣習に染まっていた時代に生まれ育った「日本人男性ビジネス・パーソン」が、年齢相応の役職や権力を手にしているということ。そして、そういう人物たちが有能な女性社員のやる気をそぎ、外国人や良識のあるビジネス・パーソンから侮蔑の目を向けられていることに気付いていない、あるいはあえて無視しているという現実があるということ。
この2点が「女性力活用が遅れている国・日本」というイメージを固定化し、会社の成長や革新を邪魔している主な要因といっても過言ではありません。そこで本連載では、日本人に浸透した「男尊女卑」の意識の源泉を探るべく、日本国内における「女性力」の変遷を、歴史的な流れとともに簡単に振り返っていきます。今回説明するのは「原始時代~戦国時代」。意外に思われるかもしれませんが、この年代では必ずしも女性の立場は低いといえなかったことがお分かりいただけるでしょう。
時代が進み、文明というものがようやく形を見せ始めた弥生時代になると、原始時代とは若干異なる「区別」が出てきます。それは「戦いに勝てる集団(強い組織)を率いる長のみに許された優位性」という概念です。
ヒトが「個」ではなく「組織」を形成して生きることを選んだために生まれたこの価値観は、徐々に「強い種=男性」に権力や地位を与えるようになっていきます。結果として「男女差別」の色を濃くしていますが、女性であっても強くさえあれば同様の権力や地位が与えられたため、いわゆる「性差別」というものではなかったようです。
また有名な「女王 卑弥呼」の例を出すまでもなく、女性が首長や「みこ」として重要な役割と権力を与えられ、国や地域を治めていた例も多く、その意味でもこの時代には「男女差別」の意識はまだ生まれていないと考えられます。
奈良時代:重要な官職は男性
時代をぐっと進めて奈良時代。この頃になると、男女を取り巻く環境は大きく様変わりします。中央集権的統治制度である「律令制度」ができたこの時代、初めて日本式官僚制度が構築されました。国家の中枢に位置し、重要な役割を持った「官職」は男性に独占され、代わりにそれまで女性に与えられていた「みこ」という役職は徐々にその重要性を失い、権力を剝奪されていったのです。
この「女性重視から男性優位の体制への移行」は国家のみならず徐々に庶民にも広まり、一般家庭でも「重要な役割は男性に」という意識が芽生え始めました。それまで「区別」はあっても「差別」はなかった日本に、初めて「(本当の意味での)性差別」が生まれたといえます。
ただし、親が亡くなった際は女性が家を相続したり、求婚の際は男性が女性の家に通いつめたりしていたことを考えると、実際の庶民生活では女性の役割や権力はまだまだ強かったようです。
平安時代:低地位の女性たち
奈良時代から生まれた「重要な役割は男性に」という流れを引き継いだ平安時代。現代人からすると「紫式部」や「清少納言」といった女性の活躍のおかげで、「平安時代は女性上位の華やかな時代」というイメージがありますが、そのイメージは前時代から続く「藤原氏」の栄華によるものが大きく、華やかなのは貴族のごく一部だけでした。しかもその貴族であっても、当時の女性の地位は低かったようです。
女性は御簾(みす)の中で男性を待つだけの日々を過ごし、力のある男性の気を引き続けることに苦心する毎日。当然外を動き回ったり、職業を選択したりといった自由はありません。一方(かい性のある貴族の)男性は妻や愛人をつくり放題、次から次へと女性の家を渡り歩く自由と権利が認められていたのですから、当時の男女の生活格差は非常に大きかったと考えられます。
女性が地位を高めるためには、歌でも美貌でも文章でも、とにかく自分の才能を磨き抜き、藤原家や天皇に宮仕えをするというのが唯一の方法だったようです。この頃になると、だいぶ現代の「男尊女卑」に近くなってきています。
鎌倉時代:女性の地位は高くなる
平安後期から生まれた「武士」により、一転して武家の時代になった鎌倉時代。こちらも「武士=男性」ということで、「男性に支配された男尊女卑全盛の時代」というイメージがありますが、実は平安時代に比べると女性の地位はかなり高くなっていたようです。
というのも「尼将軍」として名高い「北条政子」が政治面で絶大な権力を握っていたため。また平安時代末期の女性武将「巴御前」の活躍も、女性の地位向上に一役買っていたと考えられます。
そのことを証明するものの1つに、この時代に書かれた「愚管抄」という歴史書があります。その中には「日本の歴史の節目には優れた女性が登場しており、そのことで大きく時代が動いている(=日本の歴史は女性がつくっている)」という1文があり当時の女性の地位が高く評価されていたことがうかがい知れます。
戦国時代:「戦場に女は不要」
鎌倉・南北朝・室町時代と長い戦いの時代を経た末の戦国時代。この頃になって初めて、現代の「男尊女卑」に近い概念、つまり「家督は男性(長男)が継ぐ」「女性は不浄なもの、という験担ぎ」「“戦果”としての女性の扱い」「女性は政略結婚の道具」といった、「優位な男性と、それと比較して劣位にいる女性」という考えが生まれます。
一時期、政治家の失言の代表格として扱われた「女性は子を産む装置」という女性蔑視の発言がありましたが、それはこの時代に限定すると「世継ぎ(男児)を産めるかどうか」というのは女性にとって(その家にとって)非常に重要な問題でした。
逆にいえば、世継ぎを産んだ女性の地位は高く、夫やその子の働きによっては、その地位は男性と比べ物にならないほど高くなる可能性もありました。また戦力として戦場に駆り出されたり、戦地で駐屯する武将たち相手の商売をする女性も多く、一概に「女性の地位は低い」とはいえない時代でもありました。