第6回で説明した「女性力活用の環境整備」から分かるように、日本では性差、特に男女の差別意識や女性特有の社会的・身体的・精神的な特徴や男性との差異を考慮した法律制定と改正が頻繁に行われています。
特に現在では「男性へのセクハラ」や「女性へのポジティブ・アクション(性を理由として、女性を優遇・優位に扱う行為)」を盛り込んだ改正も多く、雇用に関係する法的な意味での性差はかなり縮小されてきました。
環境整備は進んでいるが…
こういった環境整備が進むことは本来喜ぶべきことなのですが、これほど頻繁な改正やきめ細やかな拡充案が行われているということは、すなわち「日本が過去、あるいは現在も男性優位社会である」ことの裏返しであり、女性の社会進出の立ち遅れを急いで取り戻したいという政府の思惑が見え隠れしています。
このことからも「男女差別撤廃」という論点が、法律的にも社会的にも国際的にも非常に重要な位置付けにあることが分かります。
しかし日本国内の実情に目を向けてみると、男女差別のある就業環境や男尊女卑意識がまん延している状況にそれほどの変化は見られず、依然として男性優位社会は続いています。
男女同権が国際標準であり、日本国内においてもそのための環境整備が着々と進められているにもかかわらず、いまだに女性の社会進出や女性力の活用に改善が見られないのはなぜなのでしょうか。
女性労働力の台頭を阻害する理由
繰り返しになりますが、労働や雇用における男女の権利や女性保護に関係する法律は、他の法律と比べても遜色のない、むしろそれら以上に重視されているといえます。しかし第3回で説明したように、日本は「女性の社会進出」という点では先進国の中では最低クラスであり、国内の実情と法律の拡充との間に大きな乖離(かいり)が見られます。
そこで、それらの乖離(かいり)を生む原因を分析してみましょう。下表は「日本の女性ビジネス・パーソンの社会進出や台頭を阻害する環境要因」を大きなものから順にまとめたものです。
この表の実情を鑑みると、現在は「日本社会が男女同権にシフトしつつあるのは事実だが、企業以下の単位ではまだ変化は見られない(ただし徐々に浸透・変化を見せる企業は増えてきている)」と考えられます。
ということは、日本で女性力活用が遅れている原因は「制度的に欠陥がある」や「(女性力進出に)必要な法律がない」といった類いのものではなく、企業風土や旧態依然の体制・慣習を持つ日本企業、あるいは過去の常識からいまだに抜け出せない労働者自身にあるといえるのではないでしょうか。
受け継がれてきた差別意識…
ご存じのとおり、日本は歴史的に非常に閉鎖的で、男女同権の意識が国内に入ってくるまでに長い年月を要しました。戦国時代や江戸時代のような強烈な男尊女卑の風習はなくなったものの、その意識は戦中戦後までは半ば常識となっていました。その常識下で生まれ育った世代がその常識をいまだに「現在の常識」として持ち続けているケースが多いことはすでに説明したとおりです。
今でこそ「時代を切り開くのは女性力」といえるようになりましたが、ほんの数十年前までは「ビジネスの現場は男の戦場。故に日本の将来をつくり、背負っていくのは当然男」という、ある種の使命感にも似た意識が「世間の常識」としてまかり通っていました。だからこそ「男性優位意識を今も持ち続けている人を一方的に責めるのは酷だ」という意見には、ある種の正当性があるのでしょう。
しかし戦後70 年、世界のボーダレス化が進み、グローバルビジネスによる事業拡大を狙う日本企業も数多くなった現在、過去の慣習にとらわれ続けることは次代を臨む企業の正しい姿だといえるのでしょうか。
「男尊女卑意識」は美徳なのか?
繰り返し説明しているように、「男女差別」や「男尊女卑」という意識は、国際的には時代遅れの産物という呼び方では足りないほどの異質な認識です。
しかし女性力活用の発展途上国、その中でも特に日本には、なぜか「男尊女卑」にある種の美徳や誇りのような意識を持っている人も少なくないようです。ともすれば悪の象徴としてしばしばヤリ玉に挙げられる「男尊女卑意識」を、開き直るでもなく、理解していないでもなく、胸を張って持ち続ける人が少なからず存在しているという奇妙な事実。まずはこの点を考察してみましょう。
この美意識を支えている根拠は、どうやら「女は三歩下がって男の後ろを歩くべし」という古くからの格言(?)への誤解からきているようです。
調べてみると、この言葉の意味や語源には諸説あるものの、本来は「女性(妻) は男性(夫)を立てて振る舞っていたほうが波風が立たず、何かにつけ都合がいい(ので、女性はつつましやかにしていましょう)」といった生活の知恵的な言葉にすぎませんでした。
しかしいつの頃からか、この言葉は「愛する女性を危険から守るために、まず男性が先に立って女性をかばう(前からくる危険はまず男性が受ける)という、男性の自己犠牲的な愛」というニュアンスを含むようになりました。
この説明に出てくる「危険」として、しばしば「斬撃(刀で斬りかかられる)」が挙げられますので、時代設定的には江戸時代あたりでしょうか。この論拠からすると、欧米の「レディーファースト」は「愛する女性を先に立たせることで危険にさらしてどうする」ということになります。
戦場に出るのは男の役目?
この言葉に限らず、「男尊女卑」や「男女差別」といった言葉を肯定的に捉えた場合、「男性は社会や職場という戦場で戦っている。男性が戦場で倒れたとしても、女性は自分と家庭を守り生き延びてほしい」という説明をされることが少なくありません。言わんとすることは分からないではありませんが、これらの解釈には若干の語弊があります。
例えば前者の場合。江戸時代は男性が女性を伴って歩くという慣習がなかったと考えられています(男性が女性と歩くことは一種の恥だと考えられていたようです)。たとえ一緒に歩けたとしても、危険は前からくるとは限りません。そもそも「愛する女性を危険から守る」のであれば、ぴったりくっついているほうが安全でしょう。
また後者では、別に戦場に出るのは性差ではなく個人の能力や体力をもって決めるべきですし、外のほうが中よりつらいとは限りません。第一「戦場に出るのは男の役目」という意識自体が、過去のステレオタイプ的男女差別意識にとらわれている証拠です。
「男性は愛する女性を守るために体を張る」という愛情表現は実に日本的で美しいものだと思いますが、その日本的美徳感覚をビジネス・フィールドに持ち込むことは筋違いです。ましてやその美徳をもって「男尊女卑」を覆い隠そうとするのは問題外。自己犠牲的美徳感覚で誇らしげに「男尊女卑意識」を振りかざす姿は、海外から見れば滑稽極まりない行為。時には「美しい言葉で、醜い男尊女卑の言い訳をしているだけ」だと受け取られることもあります。
大切なのは、まずは平等に同じフィールドに立てる環境を用意し、その上で性差や個人差、個々の価値観をもって「区別」すること。その環境を整えぬまま、美徳や麗句をもって女性自身や彼女たちの権利を傷つけている自分を隠すことのないよう心がけたいものです。
ただし、業種・業態によっては精神的・肉体的にハードな業務も多く、それらの多くは暗黙の了解的に「男性の仕事」とされていることが少なくありません。「男女差別」というよりは、むしろポジティブ・アクションとしての「区別」、すなわち「女性の精神や肉体を守ろうという気持ちの表れ」であることが多く、それらも含めて「男女差別をするな」「そういう仕事も分け隔てなく女性に開放しろ」という意見の俎上(そじょう)に載せるのは、いささか乱暴だと言わざるを得ません。
そのため、本連載の趣旨である「女性力活用」を語る上で必要な要素として「男女同権論」「ジェンダー問題」にはその都度触れていきます。しかし、それらはあくまで補助的論点とします。