「ミスをしない」仕事術がよく語られるが、ANAは違う。その基本は「人である以上、エラーはゼロにはならない」という認識だ。お客様の安全・安心を担う同社では、長年にわたり大きな事故や不具合につながらない仕組みづくりに取り組んできた。その蓄積されたノウハウを体系化したのが、ANAビジネスソリューションが展開する「ヒューマンエラー対策」研修だ。ヒューマンエラーとは、「エラーにより許容範囲を超えてしまった人間の行動や行為の結果」とANAグループでは定義付けている。研修コンセプトや内容について、講師を務める生形茂氏に話を聞いた。
ANAビジネスソリューション株式会社
営業本部 人材・研修事業部 参与
生形茂 氏
1973年全日本空輸入社。整備本部勤務。86年、成田空港支店運航機体整備部で一等航空整備士(確認整備士)として機体整備業務に従事。以降、イタリア・ミラノ支店の整備マネージャー、成田メンテナンスセンター運航機体整備部長、ラインメンテナンスセンター副センター長などを務め、2015年より現職。(撮影/三川ゆき江)
「ヒューマンエラー対策」研修
ANA整備部門が実施してきた「ヒューマンファクターズ訓練」をベースにした研修プログラム。ANA整備部門出身の講師が、安全への確かな視点とスキルを持った人材の育成をサポートする。一般的な研修との違いは、エラーそのものを減らす工夫だけでなく、「エラーの影響をコントロールすることは可能」というスタンスから、あらゆる業種・業態に共通する対策を学ぶことができることである。
現在、世界の商用航空機の全損事故率は、100万回の飛行回数あたり0.32件(2015年 出典 IATA)といわれている。設計・製造・操縦技術が格段に進歩しているからだ。一方で、ほとんど事故は起こらなくなったとはいえ、ゼロにはなっていない。
「航空機メーカーが過去の何千件という事故の分析をした結果、その要因の8割近くは『ヒューマンエラー』でした。つまり、事故の脅威として最後に残っているのが“人”なのです」と生形氏は語る。
多くの事故の分析、原因究明の中で“人のエラーをゼロにできない”ことも分かってきたという。
「ただし、人が小さなエラーを起こしても、大きな事故や不具合につながらないように、その影響をコントロールすることは可能です。このような考え方を理解し、どう対応していけばいいのかをお伝えするのが、この『ヒューマンエラー対策』研修です」(生形氏)
2002年にスタートした研修は、当初は製造現場を抱えるメーカーが中心だったが、近年では医療業界やIT業界の受講者が目立って増えているという。
日常的に起きている小さなエラーを「エラー」として顕在化させる
ANAグループでは、ヒューマンエラーを「エラーにより許容範囲を超えてしまった人間の行動行為の結果」と定義付けている。簡単にいえば「人間の行動の結果として意図しないことが起きる」ということだ。
「言葉だけ聞くと難しい専門用語のようですが、実際にヒューマンエラーにつながる小さなエラーは日常で頻繁に起きていることなのです」と生形氏。ここでいうエラーとは、見間違い、勘違い、思い込み、記憶違いなど。例えば目覚まし時計をかけ忘れても集合時刻に間に合って大事に至らなければ人はそれを「エラー」とは認識しないケースがほとんどだ。
しかし、たまたま事故や不具合につながったとき、それが「ヒューマンエラー」となってしまう。「皆さん、自分はエラーを起こしていないし、起こさないと思っていますが、まずは“人間誰しもエラーを起こすのだ”と謙虚に受け入れることが、ヒューマンエラー対策の第一歩です」と生形氏は強調する。
ならば、小さなエラーもゼロにする仕組みが最適解と考えがちだが、生形氏は否定する。「実は、それが不可能なのです。人間の脳の情報処理メカニズムを考えると、エラーは誰もが持っている人間特性の1つ。人間そのものが、エラーを誘引する要因の宝庫なのですから」(生形氏)
研修では、錯覚やパターン認識の例を出して、1人ひとりにエラーを体験させる。「人間はエラーを起こす存在なのだと認識して、仕事のときには手順書(マニュアルなど)を確かめる。自分の仕事を見直すときには第三者になって(意識を切り替えて)見直す。『私は間違えない』と思って自分の仕事を見直しても見直し(確認行為)にはなりません」と、生形氏は確信を持って語る。
「ヒヤリハット」の分析と対策でエラーを減らす…
では、ヒヤリハットを減らし、その影響を最小限にし、ヒューマンエラーを起こさないようにするにはどうしたらよいのか。例えば「ヒヤリハット」の共有や分析はその1つ。たまたま事故や不具合につながらなかったものを「ヒヤリハット」という。
ベースにあるのは1929年に発表された「ハインリッヒの法則」と呼ばれるもので、この法則によると、「重大事故」「軽微な事故」「ヒヤリハット」の比率は、1:29:300。つまり、1つの大事故の裏には、29の軽微な事故があり、300のヒヤリハットがあるとされている。
ANAグループでは、ヒヤリハットが起きた時点で、全世界の関連事業所に向けて起きたことを発信するのがルールとなっている。今日、羽田で起きたことが、明日、千歳やロンドンなど別の空港で起こらないとは限らないからだ。それゆえ、ヒヤリハットの共有を促進している。そして、提出されたヒヤリハットのリスクを評価して、必要な対策を打っておけば、事故や不具合につながらない、という考え方だ。
「誰の責任か?」よりも「誰がどのような方法で防止できたか?」が大事!
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実際の研修風景。8名の元整備士が講師を務める「ヒューマンエラー対策」研修は、希望に合わせて2~6時間の中で調整することが可能[/caption]
ただ、人間はどうしても、自分がエラーしたことはあまり言いたくないもの。こうした自己保身に対しては、どう対策を立てるのがいいのだろうか。生形氏は「『気づきの発信』は非常に重要です。なぜなら個人のエラーは会社や組織にとってプラスになる情報だからです。発信することで、次の事故を防ぐと思ってほしいですね。そのためにも、会社は個人を責めることなく、その発信を尊重する風土や文化に変える努力を続けなくてはなりません」と、しみじみ語る。
ANAグループでは、安全管理規程に「ヒューマンエラーに起因し、避けることができなかったと判断される場合には、関係する個人について、社内規定に定める懲戒処分の対象とはせず、その他の不利益な取り扱いを行わない」と約束している。
仕組みや手順、決まりをつくるのは現場の人間とは限らない。しかし、実際にそれにのっとって日々動き、気づくのは現場の人間です。その気づきを発信することが大切なのです。
取り組みは長期的な視点で
ヒューマンエラー対策研修(基礎編)で学ぶのは、(1)ヒューマンエラー対策の背景と特徴(2)人間特性(3)ヒューマンエラー対策の概念(4)ヒューマンエラー防止法(5)簡単なケーススタディの5つ。こうした内容を通じて講師たちが伝えたいことは、ヒューマンエラーを起こさせないためには、幾重にも防護壁を設け、エラーを起こしにくい仕組みをつくることと、常に防護壁を整備(管理)し続けること、さらに1人ひとりは誠実な行動で応えることの重要性だ。
(1)■なぜ航空界でヒューマンエラー対策が進展したのか。
(2)■「思い込み」「勘違い」「見間違い」「うっかりミス」といったエラーに密接に関係する「人間特性」について、簡単なワークを通じて体験する。
(3)■ヒューマンエラーが事故に至る概念をエラーチェーンとSHELモデルで理解するとともに、不幸にしてヒューマンエラーが事故や不具合に至ってしまったならば、責任追及に力を入れることよりも、原因究明の風土づくりが大切だということを、事例を通じて理解する。
(4)■エラーをゼロにはできないという前提の下での防止法を学ぶ。エラーを早く見つけて対策を行う「エラートレランス」に加え、ヒューマンエラーそのものの発生を起きにくくする仕組みづくり「エラーレジスタンス」について知る。
(5)■簡単な不具合事例を用いて、事故や不具合は1つの事象だけではなく連鎖して発生することを再確認し、基礎で学んだことを生かして論議する。(グループワーク)
生形氏によると、ヒューマンエラー対策研修の受講者から寄せられる声で一番多いのが、「気づきが多かった」だ。その気づきを自社に当てはめて、仕組みをつくることや1人ひとりの誠実な行動に結び付けることがヒューマンエラー対策の第一歩となる。
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『図解版 ANAが大切にしている習慣』(扶桑社)の第4章では、ヒューマンエラー対策の詳細に触れている。『ANAの教え方』(KADOKAWA)には生形氏も登場する[/caption]
「ヒューマンエラー対策に特効薬や万能薬はなく、私たちANAも数十年かけて築き上げてきたものです。その文化を根付かせるには時間がかかるでしょう。ただ、始めないことには、同じことの繰り返しになり、いつかは命取りになる可能性がある。『ANAは人の命を扱っているから』とよく言われますが、他の企業にとっての製品やサービスもその重要度は同じです。また、その要因が“人間”である以上、汎用性の高いノウハウだと考えています」(生形氏)