野村克也氏といえば特徴的な采配、そして個性的なキャラクターで広く知られている。弱小球団であったヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)を3度も日本一にするなど、球界屈指の名将としてその名をとどろかせた。また、その戦い方に欠かせないものとして、「ID野球」「野村ノート」「野村再生工場」「ぼやき」といったキーワードを生み出してきた。
そんな野村氏の現役時代は、戦後初めて、捕手としてはプロ野球史上初の三冠王を獲得したことでも知られている。テスト入団というあまり期待されていないところから這い上がり、快挙を成し遂げた。球界でも数少ない名選手・名監督の1人である野村氏の指導には、ビジネスにも通じるメソッドにあふれている。
野村式とはID野球ではなくプロセス重視
野村氏の采配について、真っ先に思い浮かぶのは「ID野球」だろう。IDとは“Important Data”を略したもので、データを重視する野球のことである。ただID野球は野村氏の野球観の一部にすぎない。野村氏が最も重視したのは、考えるプロセスである。
野村氏のいう“考えるプロセス”とは、「分析」「観察」「洞察」「判断」「記憶」のサイクルのことである。データはあくまでも「分析」するための1つの材料にすぎない。そこから、状況を「観察」し、心理状態まで「洞察」する。そこまで考えて、初めて「判断」することができ、その結果を「記憶」して次につなげる。野村流PDCAとも言い換えられるだろう。考えるプロセスを選手1人ひとりが理解し、実践することで、チームは強い組織に変わっていく。
なぜ、ヤクルトで成功し阪神で失敗したのか?
しかし、この手法はヤクルトでは成功し、阪神ではうまくいかなかった。両チームにおいてそれまで「考える野球」に未経験だった選手に浸透させようとしたが、一方はうまく行き、一方は失敗したのである。なぜ正否は分かれたのか。
野村氏は自身の考えを浸透させるため、キャンプで毎晩ミーティングを行った。ヤクルトではこれが成功した。「こんな話が野球の実戦と何の関係があるのか」と選手たちも最初の頃はけげんな顔をしていたが、次第に野村氏の考えを理解するように変わっていったという。
もちろん、阪神タイガース時代も同じようにミーティングを行った。しかし、肝心の選手の受け取り方が異なった。ヤクルトではホワイトボードで説明し、それを選手が自分でメモを取っていたが、阪神時代は効率よく説明するためテキスト形式にして選手に配布したのが裏目に出たという。ほとんどの選手がメモを取らずに聞き流したため、考えを浸透させることができなかったのだ。
また、ヤクルトには古田敦也氏という中心選手がいたが、当時の阪神には該当する選手がいなかったのも要因の1つといえよう。
選手に気付かせて再生するのが監督の仕事…
監督の要求と選手の要求は常に相反するものである。監督はチーム優先で考えているのに対して、選手は基本的には個人主義である。しかし、チーム競技である野球では、選手の個人主義がチーム優先に変わったとき、初めて個人の能力を超えて強いチームが生まれる。能力は高いが個人主義のいわゆる「扱いにくい選手」をチーム優先に変えられるかどうかが、強いチームになれるか否かを大きく左右するのだ。
単に全体ミーティングを繰り返すだけでは監督の考え方を浸透させることはできない。特に、かたくなに考えを変えない我の強い選手に対しては、直接、働きかけ「気付かせる」必要がある。野村氏の指導者としての武器の1つが、この気付かせる手腕だ。
南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の江夏豊氏、ヤクルトの吉井理人氏、荒木大輔氏、阪神の遠山奬志氏、東北楽天ゴールデンイーグルスの鉄平氏、山崎武司氏など、数多くの選手が野村監督の薫陶を受けた。彼らは野村氏の指導の下、自分の役割に気付き、ある者は才能を開花させ、ある者は下り坂のキャリアから這い上がった。
選手の心理を洞察し、選手に直接働きかけ、「個人主義」を「チーム優先」に変える野村氏の指導の原点は、プレイングマネージャーを務めていた南海時代にある。野村氏の指導で再生した南海の江夏氏の例を紹介しよう。
直言し厳しく叱るのも選手を育てるため
当時の南海には、一流選手だが監督の話を聞かない選手がいた。江夏豊氏、江本孟紀氏、門田博光氏の3選手で、野村氏は彼らのことを愛情交じりに「三悪人」と呼んでいた。
あるとき、二死満塁のフルカウントで、コントロールの良いはずの江夏氏がとんでもないところに投げて押し出しになり、結局その試合に負けてしまった。試合後、野村氏は「おまえ、八百長やっていないか」と切り出した。
江夏氏には、阪神時代にプロ野球選手が八百長に関与したとされる「黒い霧事件」のときに名前が挙がった過去がある。江夏氏は八百長を否定したが、野村氏は「100万回やっていないといっても説得力はない。マウンドに登ったときにピッチングで示すしかない」と説いたという。
江夏氏はそのとき、「今まで何人かの監督に会ったけど、そういう言いにくいことをはっきり面と向かって言われたのは野村監督だけだ」と衝撃を受けた。「三悪人」の1人であった江夏氏はそれ以降、野村氏の話に耳を傾けるようになったのだ。
その後も、野村氏と同じマンションに住んでいた江夏氏は何かあれば彼の部屋を訪れ、「今日のあの1球はなぜあそこでストレートなんだ」、「なんで、あそこでカーブを要求したんだ」など、夜が明けるまで野球についての熱論を繰り広げたという。
江夏氏との交流は、野村氏にとっても指導者としての成長につながった。選手を育てるのに必要なものは、「褒めたり、優しく接することだけが愛情ではない」「直言をしてやったり、厳しく接したり、叱ったりということも立派な愛情である」ことを野村氏は学んだのだ。
選手おのおのの真の役割を説く野村監督の組織運営
野村氏と強い信頼関係を結んだ江夏氏だが、血行障害を抱える彼の体には、もはや先発完投できるだけの力は残っていなかった。そんな江夏氏に、野村氏はリリーフになることを進言した。
江夏氏は先発に強いこだわりを持っていたが、野村氏は「一緒に革命を起こそう」と口説き落としたという。「大リーグでは投手の分業は当たり前になっている。日本もいずれそうなる」という未来を見すえた野村氏の説得に、江夏氏もついに首を縦に振った。そして、リリーフエースとしての新境地を切り開き、1977年にはパ・リーグの最優秀救援投手に輝いたのだ。
野村氏は相手の話に耳を傾けた上で、その人物にしかできない真の役割を与え、その重要さを説いてきた。「ID野球」や「ぼやき」も確かに野村氏の監督としての無二の個性だ。しかし、野村采配の強みとは、彼が提唱する考えるプロセスの下、真の役割に気付いた選手たちが、チームとしてまとまることにある。そうすることで、日本社会でもとりわけ結果を求められるプロの世界において、野村氏は弱小チームを強いチームに変えてきた。
日本は社会が豊かになり、ハングリー精神や精神論のみで社員を鼓舞することは難しくなってきた。しかし、自分のやるべき使命に気付くことは、社員のモチベーションの向上につながるだろう。潜在能力の高いプレーヤーに、チームにおける自分の役割を認識させて、考えるプロセスを与える野村氏の組織運営は、「強い個が集まる強い集団」をつくるに当たって大いに参考になるはずだ。