私たちは大抵、相手の行動や言動に対して、反応し合って生きています。「いい」「悪い」や「正しい」「正しくない」とジャッジしがちです。そして、相手に自分の正義を押し付けて戦ってしまうのです。
人は安心したい生き物。否定や攻撃からは、前向きな言動は生まれにくいものです。安心感があれば、頑張ろうと思えるし、困難にも立ち向かいやすくなり、周りの人を受け止めることもできるようになります。そう、安心感が人を動かすのです。
それは、相手を「認める」ことです。認めるという言葉の語源は「見る」「留める」だそう(注)。「見留める」とは、自分とは違うんだ、と心に留めること。いい、悪いとジャッジするのではなく“そうなんだ”と受け入れることです。
人には「自分の存在を見留めてほしい」という欲求があります。下の三角形の図を見てください。これは、「承認ピラミッド」と呼ばれています。一番下が「Being(存在)」、真ん中が「Doing(行動)」、一番上が「Having(資源/持ち物、学歴、才能など)」となっています。この図からも分かるように、心理学用語でいう「承認存在欲求」――存在を承認してもらうということが、人間にとって最も根源的な欲求なのです。
人にとって一番大切なのは、自分の存在に気付いてもらい、自分の存在を見留められること。自分が見留められていると感じれば、気持ちが満たされ、物事に前向きに取り組むことができます。これはもちろん、職場でも同じ。でも、実際にはここを大事に扱ってもらうことが少ないのです。
なぜなら、私たちはどうしても、相手の三角形の上のほう、優劣がつきやすいものに目が行きがちだからです。特に会社や組織にいれば、常に結果を求められますから、数字や結果ばかりを見てしまう傾向があるでしょう。そうすると「ただ相手を気にかけ、興味を持つこと」が難しくなります。でも、相手の存在を見留めることこそが、人との関わりにおいて大切なことです。そのステップをお伝えしましょう。
ある会社で、派遣社員の定着率が高い部署と低い部署とがありました。違いは何かを調べたところ、定着率が高い部署では、派遣社員が出社する初日に、部長が必ず自分から、派遣社員の人に声を掛けていたそうです。
「今日から来てくれる○○さんだね。どうぞよろしくお願いしますね」
初めての職場に行くときは、誰しも緊張します。そんなときに、部署のトップの立場である部長が声を掛けてくれたら、うれしいですよね。「自分のことを気にかけてくれている」「自分を喜んで受け入れてくれている」と思うのではないでしょうか。
一方で、もし初めて足を踏み入れた職場で、みんながパソコンに向かって一心不乱に仕事をしていて、いつまでたっても気付いてもらえなかったら、あなたならどう感じますか?何だかさみしい気持ちを感じると同時に、この会社でやっていけるだろうか、と不安になるのではないでしょうか。
この声掛けだけで、定着率が変わったのではありません。初日の声掛けは、行動の1つにすぎません。恐らく、この部長には、人と関わる意識やマインドがあったのです。また、最初の挨拶だけでなく、常に関わる人たちからの安心感を与えるコミュニケーションもあったのでしょう。
自分から「挨拶をする」「相手の名前を呼ぶ」。そんな単純なことでいいんです。あなたと関わることで相手がどれだけ安心感を持てるか、ここが大切なのです。
営業成績を上げた声掛け
コミュニケーションコーチになる前、私は全国規模の英会話学校で、マネジャーをしていました。規模に応じて、各校に1〜2人のマネジャーがいて、生徒の入学手続きや講座の更新率の管理、先生のマネジメントなど、運営を任されていたのです。1つのスクールに年単位で赴任することもあれば、ヘルプで短期間だけ働くこともありましたが、私は日本各地のスクールに出向いて、全国トップレベルの営業成績を上げ続けました。
なぜ、営業成績を上げられたのか?当時は、特別なことをしているといった意識はありませんでした。でも今なら、その理由が分かります。スタッフや生徒への「存在承認」ができていたからです。
私は、新しいスクールに赴任したらまず、先生たちみんなとじっくり話をしました。話すといっても、生徒の継続率など、数字の話ではありません。「なぜ英会話の先生になったの?」「教えていて何が楽しい?」といった質問です。これはただ、相手に「興味を持つ」ということです。もちろん、利益を出すために営業成績を上げることは大事です。でも、「数字が悪いけれど、どう思っているの?」と聞いても、モチベーションは上がりません。みんな、数字を上げなければならないことは重々承知なのです。そんなときこそ、急がば回れ。最初はとにかく、先生たちとの信頼関係を結ぶことに意識を向けました。
私はよく「大石さん(旧姓)ほど、数字の話をしないマネジャーは初めて」と言われました。歴代のマネジャーは着任後、挨拶もそこそこに数字の話やダメ出しばかりだったそうです。扱いにくいと言われた先生にさえ、「大石さんは、この人に協力したい、と思った初めてのマネジャーです」と言われました。数字ではなく、生徒や自分のことを聞かれて「この人は私の生徒も大切にしてくれる」と感じたのだそうです。
人のやる気をそぐのも、人をやる気にさせるのも“人”。私はそのことを、英会話学校勤務時代に学びました。
うまくいっていないときこそ、声を掛ける
これまで、いろいろな上司に出会いましたが、私の才能を引き出してくれたのも、やはり存在承認の上手な上司でした。
あるとき、数字が上がらない九州のスクールにヘルプで送り込まれたことがありました。当時、私は本社の事業部長だったので、数字は出して当たり前。誰もフォローなんてしてくれません。知らない土地で頑張ってはいたものの、当初はなかなか数字が上がりませんでした。「まずいな……」と思っていたとき、私の携帯電話が鳴りました。出てみると、「大石ちゃん、元気?」と懐かしい声が。以前お世話になった女性の上司が、私が地方に派遣されていることを知り、気にして電話をくれたのです。
その上司は当然、集計表を見て私の数字を知っていたはず。でも、「どう?数字上がった?」などとは聞きません。「本社で見かけないからどうしたのかと思ったら、○○校にいるって聞いたから、思わず電話してみたのよ!」。そうやって気にかけてくれたことが、本当にうれしかったのを、今でも覚えています。
たった1人の元上司から声を掛けられただけでしたが、そこから私はめちゃくちゃ頑張ることができました。自分のことを見ていてくれる人がいる、その上司を喜ばせたいと思ったら、今までの何倍も力が出て、結果、目標の数字を達成しました。
仕事がうまくいっているときは周りからも注目されたり、評価されたりしますから、精神的にも元気に、自分の力である程度頑張ることができます。でも、うまくいっていないときこそ大切なのが、存在承認なのです。まずは「ちゃんと見ているよ」と伝えてください。その言葉に力付けられ、きっと前向きになって仕事に取り組めるようになります。