ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
似ているようで違う、法人向け光回線の選び方
公開日:2019.09.26
2019年9月、大阪市出身の女子プロテニス選手大坂なおみさんに大阪府知事から「感動大阪大賞」、大阪市長から「市長特別表彰」が贈られた。よくぞ、今、贈っていただいた!と、賞の贈呈を伝える記事を読んで膝を打ったものである。世界ランキング1位になった後、一度もトーナメントの決勝まで進んでいない大坂なおみ選手がずっと気掛かりだったからだ。
破竹の勢いで女子プロテニスの頂点まで上り詰めた大坂選手には焦りや戸惑いもあることだろう。でも、アスリートとしてのキャリアはまだまだこれからなのだ。それを裏付けるために、大坂選手の少し前のテニス界を華やかに駆け抜けた伊達公子さんにスポットを当ててみたい。
1970年に京都市で生まれた伊達さんは、高校時代にインターハイで3冠を達成。卒業後の1989年にプロとしてのキャリアをスタートさせた。彼女の武器は、ライジング・ショット(相手が打ったボールが自陣でバウンドした直後に打ち返す技術)に象徴されるスピーディーな展開。同年には早々と全仏オープンで海外デビューを果たし、続くウィンブルドンと全米オープンでは本戦出場を成し遂げた。
その後も海外でグランドスラムをはじめとする大会で世界の名だたる強豪選手を相手に善戦。時に圧倒し、95年11月には世界ランキング4位のポジションを得ている。
しかし、自身最高ランクに上ってから1年もたたない96年9月、その輝かしい戦績に突然ピリオドを打った。全盛期と認識していたトッププレーヤーの決断に世間が驚く中、引退を表明し、コートを去ったのである。
しかし、物語は終わらなかった。2008年4月、伊達さんは現役復帰を表明した。引退発表してから11年半が経過していた。
11年半!
トップアスリートにとっては100年にも相当すると思われるブランクを経て彼女は再びラケットを手にすることを決意する。しかもプロとして全日本選手権に出場することを目標に掲げたのだ。
復帰の1つのきっかけは、同年3月に開催されたシュテフィ・グラフさんとのエキシビション・マッチだったという。
「先日のドリームマッチに向けて昨年の9月頃から練習を繰り返す中で、引退してからこれまでに感じたことのない気持ちの揺れを幾度となく感じていることに自分自身で気づきました。」
(『Ðate of ÐATE 伊達公子の日々』 伊達公子、金子達仁著)
その揺れた気持ちが最終的に向かったのは、プロとして真剣勝負のテニスコートに立つことだった。そして実際、復帰したその年に全日本テニス選手権シングルスで16年ぶり、3度目の優勝を飾ったのだ(ダブルスも優勝)。
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執筆=藤本 信治(オフィス・グレン)
ライター。
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アスリートに学ぶビジネス成功への軌跡