ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
似ているようで違う、法人向け光回線の選び方
公開日:2020.01.30
1966年のドラフトで1位指名を受け、阪神タイガースに入団した江夏豊さんは、著書で初キャンプのこんなエピソードを紹介している。
ブルペンにはドラフト1位の江夏はどんな球を投げるのか、と興味津々の新聞記者やファンが群がっていた。その前で川崎さん(注 ピッチングコーチ)は「カーブも放れんと、プロ野球に入ってきたんか」と言ってゲラゲラ笑った。十八歳の自分は傷ついた。
(『燃えよ左腕 江夏豊という人生』江夏豊 著)
入団後にカーブも投げるようになった江夏投手だが、最初は基本ストレート一本で打者に向かった。先輩、村山実投手の教えである「投手はリズム」を受け継ぎ、捕手から球が返ってきたら間をおかずにポンポン投げていく。そして打者を次々と三振に仕留めた。
入団2年目の1968年9月17日、江夏投手はジャイアンツ戦で、シーズン奪三振の日本記録「353」の更新に挑んだ。新記録を狙うだけではなく、江夏投手は、試合前から日本新記録となる三振は、前年まで6年連続のホームラン王を獲得し、球界を代表する打者であった王貞治選手から取ると公言するのだ。そして、実際、4回に王選手から三振を奪うのだが……。
その王さんから奪った三振で新記録と思ったら、勘違いでタイ記録。また王さんを打席に迎えるまでの一回り、どうすりゃいいんだと頭を巡らした。
(同書より)
そこで打たせて取る戦略に切り替え、後続をヒット1本でしのぎ、再び7回に王選手と対戦する。2ストライク1ボールと追い込んだ後の4球目。20歳の青年がチームを勝たせる!三振を取る!という熱い思いを乗せて投じた高めのストレートを王選手はフルスイング。空振りに仕留めた。
奪三振の記録は同シーズン中に401個まで伸び、その数字は現在も日本球界の最高記録として残っている。
それから、10年以上の時を経た1979年11月4日、再び江夏投手は日本中の注目を集めていた。舞台は日本シリーズ第7戦(広島東洋カープv.s.近鉄バッファローズ)。どちらが勝っても初の日本一という絶対に譲れない戦いだった。
カープのリリーフエース江夏投手は、4対3と1点リードした7回途中にマウンドへ。リードを守ったまま9回裏にもマウンドに立った。そこからは作家の山際淳司氏のノンフィクション「江夏の21球」で描かれたドラマが展開されていく。
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執筆=藤本 信治(オフィス・グレン)
ライター。
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