ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
似ているようで違う、法人向け光回線の選び方
公開日:2020.02.27
人と馬が一体となって挑む馬術競技。2020年東京五輪では、7度目の挑戦で悲願のメダルを狙う杉谷泰造選手などが注目を集めている。この競技は、障害馬術、馬場馬術、総合馬術という大きく3つのカテゴリーがあり、多くの国で愛されている。
男女が同じステージで競い合うルールで、競技者がリズムとバランスをコントロールし馬が運動するという競技特性を持っている。70歳を超えてもトップレベルで活躍できる点も人気を集める理由だ。そうした馬術競技で、日本におけるオリンピック金メダリストはたった1人。それがバロン西である。
バロン西はいわゆる愛称で、本名は西 竹一(にし たけいち)という。「バロン」とは貴族の爵位の一つで日本語に訳すと「男爵」となる。西氏は1902年、旧華族の家に生まれ、10歳になった1912年には父の死去に伴い、男爵の爵位を継承して「西男爵」となった。しかし、ここでは氏への敬意とその海外にもまたがる活躍にふさわしくバロン西と表記させていただこう。
若きバロン西の大きな転機は東京府立第一中学校在籍中に訪れた。周囲は父の跡を継ぎ、外交官になると思っていたようだが、彼は突然、陸軍幼年学校への入学を希望し、転籍する。そこで馬の魅力を知り、馬術を始めたという。
その後、陸軍騎兵学校へと進み、フランス留学で馬術を学んだ馬術課長・遊佐幸平中佐をはじめとする指導者に恵まれ、馬術のスキルを磨いていく。乗馬法は、ドイツ式、フランス式、イタリア式に分類されるが、バロン西はイタリア式馬術をベースに独自のスタイルを生み出していく。
そして次の大きな転機、それは生涯のパートナーとなる愛馬「ウラヌス号」との出合いだ。
イタリアに誰も乗りこなせない馬がいるという話を聞いたのがきっかけだった。彼は6カ月(!)の休暇を取り、現地に向かう。ちなみに、その航路で出会ったのが当時のハリウッドの大スター、ダグラス・フェアバンクスとメアリー・ビッグフォード夫妻。バロン西と銀幕のスターは意気投合し、その後も長きにわたる親交を結ぶことになる。
1930年3月、イタリアでウラヌス号を見たバロン西は、一目で魅せられてしまう。体高181㎝という大きな馬体で、額には星のマークがあり、そこから「天王星」を表すウラヌスと名付けられた。彼は、この気性の激しい馬を約2000円の自費を投じて購入した(1929年の銀行の初任給は70円)。
彼は、その背に誰一人乗せなかったじゃじゃ馬をすぐに乗りこなし、早速ヨーロッパ各地の馬術大会に参戦し、好成績を残した。
そして、その日が訪れる。1932年8月14日。第10回オリンピック ロサンゼルス大会の最終種目として「大賞典障害飛越競技」が開催された。この競技には4カ国、11組の人馬が参加。コースの難度は非常に高く、完走したのはわずか5組。その難関レースをバロン西とウラヌス号はほとんどノーミスで走り切り、金メダルの栄冠を勝ち取った。
レース後、新聞記者に囲まれ、インタビューされたバロン西は一言、こう答えた。
「We won」
日本人記者はその言葉を聞き、「我々、日本は勝った」と打電したが、それは間違いだ。「わたしとウラヌス号が勝った」と、バロン西は言ったのである。
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執筆=藤本 信治(オフィス・グレン)
ライター。
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