ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
似ているようで違う、法人向け光回線の選び方
公開日:2020.07.16
1994年5月1日、F1・サンマリノGPでアイルトン・セナが事故死するという衝撃の出来事が起きた。この同じ日、遠く離れた北海道の牧場で1頭の小柄な牡馬が誕生する。この仔馬(こうま)こそが、のちに“伝説の逃げ馬”となるサイレンススズカであった。
音速の貴公子と呼ばれ、ポールポジションから常に先頭を走って勝ち切るセナ。サイレンススズカもスタート直後から先頭に立ち、後続馬を大きく離して逃げ切る“ポール・トゥ・ウィン”のスタイルをターフ上で体現した馬だった。
そのレースぶりと、セナが逝った5月1日に生まれたこと、鈴鹿サーキットに通じるスズカの名、そしてレース中の突然の別れ……。もちろん、すべてが偶然だ。しかしどれほど偶然の仕業であったとしても、自然とセナのイメージに重ねるファンは多く、また重ねないファンにとっても、セナに似た圧倒的で悲劇的な要素が現在まで続く“夢”を形作っていることは間違いない。
競走馬にはさまざまなタイプがある。最初から先頭を走るのが得意な馬も入れば、そうした先行馬を追走して最後に力を出す馬もいる。中には、後方でじっくり構えて、最後の直線でごぼう抜きを狙う馬もいる。
サイレンススズカは、スタート直後から先頭に立つ。周囲の馬とは比較にならないスピードで加速して、2番手に10馬身超えの大差をつける大逃げを打ち、最後の直線に入っても後ろを寄せ付けず、影をも踏ませぬ圧倒的な逃げ切り勝ちを演じる。この姿に多くのファンが魅了された。とりわけ圧巻は1998年5月の金鯱賞(GII)。0秒1前後の差で決着するのが当たり前の競馬の世界で、2着に1.8秒というまさに“圧逃”の勝利を見せつけた。
とはいえサイレンススズカも、デビュー当初からその爆発的な強さを身に付けていたわけではない。1997年2月の新馬戦こそ圧勝したものの、次戦はスタート前にゲートをくぐり、レースも大きく出遅れ。気性の悪さが能力の開花を妨げていた。その春はダービーに出走するものの逃げることなく9着、秋もGIに連続挑戦したが、大観衆を前に激しくイレ込むなどまだまだ若さが目立っていた。
デビュー前から能力の高さを評価されながら、伸び切れなかった1997年も終わりに近づいたある日。サイレンススズカを管理する橋田満調教師に、1人のトップジョッキーが「僕に乗せてくれませんか」と声をかけた。
1987年にデビューして瞬く間にトップジョッキーに上り詰め、1997年当時は1992年から5年連続でJRA年間最多勝利騎手となっていた武豊騎手。騎乗依頼を待つスタンスを貫いていた武騎手が、自ら働きかけてまで乗りたかった馬がサイレンススズカだった。
騎乗が実現した12月の香港国際カップでは5着に敗れたものの、武騎手は手応えをつかむ。
年が明けて1998年。気性の落ち着きが見られ始めたサイレンススズカと武騎手のコンビは「ハイペースで大逃げ」で連勝を重ねる。
「スタートからスピードの違いで先頭を走り、道中はスピードを維持しながらしっかり折り合ってリズム良く進み、最後の末脚は追い込み馬よりも切れる……究極の強さを追い求めれば、行き着くのはそこです。そして、サイレンススズカは、それを実践できたサラブレッドでした」
(『名馬たちに教わったこと ~勝負師の極意III~』武豊 著)
「理想のサラブレッドです」
(『Sports Graphic Number』689号、「1分56秒──理想のサラブレッド、サイレンススズカ」より)
多くの逃げ馬は、スタートから飛ばして先頭に躍り出るものの、最後はバテて馬群に沈む……そのイメージが一般的なものだった。ところがサイレンススズカは、圧巻のオーバーペースで飛ばしながらもバテずに、むしろ後続馬たちが先にバテて、やすやすと勝ってしまう。
その「究極」「理想」の強さに、騎手も、競馬関係者も、そしてファンも夢を感じた。
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執筆=斉藤 俊
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