2008年8月に開催された北京オリンピックの陸上トラック競技最終種目となった男子400mリレー決勝レースをご覧になって快哉(かいさい)の声をあげた方も多いだろう。
号砲とともに絶妙なスタートを切った第1走者の塚原直貴さんから末續慎吾さん、続く高平慎士さんを経由したバトンを受けると最終走者の朝原宣治さんはゴールに向けて激走し、ジャマイカ、トリニダード・トバゴに続き見事3着でゴールしたのだ。ゴール後、しばらくして順位を確認した朝原さんは、喜びを爆発させるとバトンを高く放り投げた。
3位というのがわかった瞬間、いろいろなプレッシャーからの解放感と、『やったーっ!』といううれしさがゴチャゴチャになってしまって、わけがわからなくなったんです
(チーム朝原の挑戦 バトンは夢をつなぐ 折山淑美著)
オリンピックにおける日本男子陸上初のメダル獲得を実現させた喜びと安堵、そして自身4度目のオリンピックであり、国際舞台でのラストランになるであろうレースで最高の結果を残せたという喜びを乗せたバトンは、夜10時を回った北京の暗い空に吸い込まれていった。
オリンピック連続出場への軌跡
高校時代から陸上競技を始めた朝原さんが、オリンピックを意識するようになったのは、大学2年になった1992年だったという。
当時、交際が始まっていた奥野史子さん(現在の奥さま)がバルセロナオリンピックにシンクロナイズドスイミング(現在はアーティスティックスイミング)の日本代表に選ばれたのがきっかけだった。二人で一緒に参加したいと夢を膨らませていたものの、朝原さんはケガもあり、代表選考会で落選。一方の奥野さんはソロとデュエットで2つの銅メダルを獲得した。それが刺激になり、本気でオリンピック出場を渇望するようになったという。
当時は、スプリントより、走り幅跳びに主軸を置いていたが、1993年の国体に100mで出場し10秒19の日本記録を出したのを皮切りに、次第にスプリント競技での活躍が注目を集めるようになっていく。
念願をかなえて出場したオリンピックを例にあげると、96年のアトランタ五輪には走り幅跳び、100m、400mリレーに出場。2000年のシドニー五輪では400mリレー、04年のアテネ五輪では、100m、400mリレーに出場している。
そして2007年に大阪で開催された世界陸上競技選手権大会では100m、400mリレーに出場し、リレーでは38秒03のアジア記録で5位に入った。メダルには届かなかったものの、最高のレースができた。朝原さんは、スタジアムを埋めた日本の観客を前に力を出し切ったことに満足し、長かった競技人生に幕を下ろそうと考えた。
引退を伸ばして、「チーム朝原」始動…
しかし、大会を終えた後、あのメンバーとまた闘いという思いが強くなり、朝原さんは現役をもう1年続けることを決断する。1年後に同じ色のメダルを分かち合うことになる仲間「チーム朝原」との出会いが、アスリートの情熱に再び火をつけたのだ。
400mリレーの強豪国には、100mを9秒台で走る選手が何人もいる。しかしリレーは選手4人の100mのタイムを足した数字で勝敗が決まることは限らない。最適なタイミングで行われる正確でミスのないバトンパスが不可欠であり、それを可能にするためのチームワークがなにより重要だ。朝原さんはそこに勝機を見いだし、チーム朝原に賭けた。
チーム朝原は、バトンパスに関して、現在の主流であるオーバーハンドパス、すなわち受け手が手のひらを上に向けて、渡し手に見せてバトンをもらうのではなく、手のひらを下に向けてバトンをもらうアンダーハンドパスを選択した。アンダーのほうが走るのが楽だし、選手同士が接近してバトンパスができるのでリスクも小さくなるという判断だ。チームはアンダーハンドパスの練習を繰り返し、それによってさらにチームの団結が強固なものになっていった。
また朝原さんの穏やかな性格がチームの雰囲気づくりに好影響を与えたのも確かなようだ。当時35歳の朝原さんは他のメンバーとは年齢差も大きいし、またキャリアも実績も十分だ。それでも常にゆったりと構え、メンバーが気負うことなく自然に接することができる存在だったという。そういえば写真で見る朝原さんの顔はいつも目の奥が笑っているような印象がある。そんな人柄が、メンバーにとっては、バトンに思いを託し、それを手渡したい相手だと思わせたのではないだろうか。
1人のビジネスパーソンにそのようなチームづくりができるような素養を見つけた場合、企業はどのように対応すればいいのだろう。まずはリレーチームのように、皆が同じ方向を見て、それに向けて一丸になれるという意味で、新規ビジネスの立ち上げを任せてみるのも魅力的なチャレンジではないだろうか。
北京五輪の決勝レースの後、記者会見でジャマイカチームに「強さの秘密はなんだ?」という質問が寄せられたという。
朝原はその質問を聞いた時、彼らは「足が速いから強いのは当たり前だ」と答えるのではないかと思っていた。
(チーム朝原の挑戦 より)。
しかし、予想に反して、ジャマイカチームは「俺たちは友だちなんだ」と答えたのだという。その答えを聞いて、朝原さんは感銘を受けた。自分たちと同じだ、と。そして自分たちがやってきたことが正しかったことを再確認したと振り返っていた。
そのジャマイカチームは2017年に行われたドーピング再検査で失格となり、日本代表チームのメダルの色が銅から銀に変わった。その時、朝原さんはあるインタビューで次のように答えている。「あんまり感動はないけど、順位が下がるわけじゃない。銀のほうが色がきれいだし。そんな程度です。色はそこまで関係ない。男子トラック種目初のメダルというところに価値がある」
もしかすると、友だちなんだ、と答えたジャマイカチームへの切ない思いが、この少しトーンの低い言葉になったのかもしれない。