ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
似ているようで違う、法人向け光回線の選び方
公開日:2021.07.13
2008年8月に開催された北京オリンピックの陸上トラック競技最終種目となった男子400mリレー決勝レースをご覧になって快哉(かいさい)の声をあげた方も多いだろう。
号砲とともに絶妙なスタートを切った第1走者の塚原直貴さんから末續慎吾さん、続く高平慎士さんを経由したバトンを受けると最終走者の朝原宣治さんはゴールに向けて激走し、ジャマイカ、トリニダード・トバゴに続き見事3着でゴールしたのだ。ゴール後、しばらくして順位を確認した朝原さんは、喜びを爆発させるとバトンを高く放り投げた。
3位というのがわかった瞬間、いろいろなプレッシャーからの解放感と、『やったーっ!』といううれしさがゴチャゴチャになってしまって、わけがわからなくなったんです
(チーム朝原の挑戦 バトンは夢をつなぐ 折山淑美著)
オリンピックにおける日本男子陸上初のメダル獲得を実現させた喜びと安堵、そして自身4度目のオリンピックであり、国際舞台でのラストランになるであろうレースで最高の結果を残せたという喜びを乗せたバトンは、夜10時を回った北京の暗い空に吸い込まれていった。
高校時代から陸上競技を始めた朝原さんが、オリンピックを意識するようになったのは、大学2年になった1992年だったという。
当時、交際が始まっていた奥野史子さん(現在の奥さま)がバルセロナオリンピックにシンクロナイズドスイミング(現在はアーティスティックスイミング)の日本代表に選ばれたのがきっかけだった。二人で一緒に参加したいと夢を膨らませていたものの、朝原さんはケガもあり、代表選考会で落選。一方の奥野さんはソロとデュエットで2つの銅メダルを獲得した。それが刺激になり、本気でオリンピック出場を渇望するようになったという。
当時は、スプリントより、走り幅跳びに主軸を置いていたが、1993年の国体に100mで出場し10秒19の日本記録を出したのを皮切りに、次第にスプリント競技での活躍が注目を集めるようになっていく。
念願をかなえて出場したオリンピックを例にあげると、96年のアトランタ五輪には走り幅跳び、100m、400mリレーに出場。2000年のシドニー五輪では400mリレー、04年のアテネ五輪では、100m、400mリレーに出場している。
そして2007年に大阪で開催された世界陸上競技選手権大会では100m、400mリレーに出場し、リレーでは38秒03のアジア記録で5位に入った。メダルには届かなかったものの、最高のレースができた。朝原さんは、スタジアムを埋めた日本の観客を前に力を出し切ったことに満足し、長かった競技人生に幕を下ろそうと考えた。
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執筆=藤本 信治(オフィス・グレン)
ライター。
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