ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
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公開日:2022.01.11
1998年2月に開催された第18回オリンピック冬季競技大会(1998/長野)からスピードスケート500mは2日間にわたって競技が行われ、その合計タイムによって順位が決まることになった。
1日目に35秒76のオリンピック記録をたたき出した清水宏保選手は、2日目に日本中の期待を集めてイン側のスタートラインに立った。アウトコースに立っているのは、カナダのパトリック・ブシャール選手。清水選手がもっとも金メダルに近いと分かっていても、2人が並ぶ映像を見て一抹の不安を感じた方も多かったかもしれない。身長162㎝の清水選手に対してブシャール選手は頭1つ背が高い。足の長さが競技スピードに大きな影響を与えるというスピードスケートにおいては、身長差は大きなハンディになる。
しかし号砲が響くと、清水選手の64cmという太ももが力強く氷を蹴って得意のロケットスタートを決めると、終始リードを保ちながら500メートルを滑り抜いた。ゴールを通過した清水選手は、サングラスを外すと両手で高らかにガッツポーズをした。長野五輪第1号の金メダルが確定した瞬間だった。それは同時に日本スピードスケート陣にとって初の金メダル獲得となる歴史的な快挙でもあった。
しかし栄誉ある金メダル獲得も清水選手にとっては到達点ではなかった。
「金メダルを獲ってもなぜか、達成感が湧かなかったんですよ。ですから僕のアスリートとしての最終目標は、金メダルではないということが分かったんです」
(神の肉体 清水宏保 吉井妙子著)
清水宏保さんは、恵まれた資質を武器に頂点へと上り詰めたアスリートではない。子どもの頃からぜんそくで虚弱体質だったという。先述のように身長も低い。そうしたマイナス要素を覆すために人並み外れた努力と工夫により創造されたアスリートといえるだろう。
その創造に最初に取り組んだのは、父である均さんだった。均さんは、3歳の清水さんが初めてスケート靴を履いた時、誰も教えないのに氷上に立っている姿を見て、スケートの才能を確信すると、末っ子である清水さんの指導に情熱を傾けた。運動経験のない均さんだったが、一流スケート選手の滑りをビデオで研究しては指導に取り入れたほか、身長のハンディを克服するために清水さんに四股を踏ませて股関節を柔らかくし、少しでもストライドが広くなるようにするなど、さまざまな工夫を重ねながら清水さんを育てた。
父と子が二人三脚で練習に取り組む中、均さんは末期がんで余命半年と宣告される。清水さんが小学校2年生の時だ。しかし、それからも清水さんの成長を見守るように9年の歳月を生き延びるのだ。
そして均さん亡き後、創造のバトンを受け継いだのは清水さん自身だった。長野五輪で金メダルを獲得した後も、さらなる目標に向け、自らを創造する手を緩めなかった。そこで重視したのが筋肉を壊し、再生することによりパワーを得る方法だった。
清水さんは考えた。パワーは筋繊維の数に比例する。しかしモンゴロイドである日本人は遺伝的に欧米人に比べて筋繊維が少ない。そこで筋肉を壊し、再生することで一本一本の筋繊維を太くすると、面積にすると同じような広さになり、同等のパワーが出せるはずだと。
その目的で長野五輪後に取り組んだ練習の1つが、静止している自転車をこぎ続けるローラートレーニングだった。負荷の高い、重いペダルを1分以上必死にこぎ続け、心拍数を生命維持の限界である220まで上げ、酸素の供給を断つことで筋肉を壊死(えし)させるのだという。この過酷な訓練を、足の筋肉をけいれんさせながら、時に白目をむきながら、清水さんは日に何度も繰り返したという。
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執筆=藤本 信治(オフィス・グレン)
ライター。
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