歌手のトニー・ベネットの持ち歌として知られる名曲「思い出のサンフランシスコ」のこの歌詞のように、23歳の若き堀江謙一さんの心にもサンフランシスコという美しい街が住み着くことになったのではないだろうか。
堀江さんが小型ヨット「マーメイド」からサンフランシスコの地を仰ぎ見たのは1962年8月12日。ヨットによる単独無寄港太平洋横断を成功させ、アメリカのサンフランシスコに無事入港した日だ。
過酷な航海だった。兵庫県西宮を5月12日の夜に出港してから94日間、重度の船酔い、幻覚を見るほどの不安と孤独、そして雨や波の影響で乾ききらない寝袋で寒さに耐えながら短い仮眠をとる日々が続いた。台風が全長5.83mのマーメイドを木の葉のように翻弄し、沈没を覚悟したときもあった。
無事にアメリカに着いても歓迎されるとは思えなかった。当時は小型船舶による出国は認められていなかった。パスポートを取得するために奔走したが、結局、取得できなかった。アメリカに到着しても不法入国で当局に拘束されて当然だったのだ。
しかし、たとえパスポートを持っていなくても、小さなヨットを一人で操縦し、広い太平洋を越えてきた若きヨットマンをアメリカは歓待してくれたのである。以下、堀江謙一さんの著書「太平洋ひとりぼっち」を参照し、その様子を要約してみよう。
快晴の午前11時、マーメイドはゴールデン・ゲート・ブリッジをくぐり、サンフランシスコ湾に入っていく。すると家族でクルージングを楽しんでいると思われる大きなヨットが近づいてきた。船長と思われる男性に「ホエア・ドウ・ユー・カム・フロム?」と聞かれた堀江さんは「フロム・オーサカ・ジャパン」と大声で答えた。「ウォーッ」と驚いた船長に堀江さんは意を決して「アイ・ハブ・ノー・パスポート」と白状した。すると船長はケロッとして「オッケー・オッケー・フォロー・ミー」と返してくれたのだという。
その船長が連絡したのだろう。やってきた沿岸警備隊の船に曳航されたマーメイドは、海水浴場のような場所に係留された。そこに役人や新聞記者が集まってきた。
堀江さんは、彼らに日本の缶ビールをふるまった。その一人が、堀江さんに双眼鏡を渡したので覗いてみると、ビキニ姿の女の子たちが大勢日光浴をしていたという。ちょっと困った堀江さんだが、せっかくだからと次のように答えてみせた。
「アイ・ライク・ザット」(いいながめだ)
そう叫んだら、みんなキャッキャと笑い立てた。
快晴の真昼である。日本晴れだな、とおもった。
(太平洋ひとりぼっち 堀江謙一著)
当時のサンフランシスコ市長も粋な計らいをしてくれた。市長いわく「コロンブスもパスポートは省略した」と。そのうえで1カ月間の米国滞在を認めたばかりか、堀江さんを名誉市民に認定したのだ。まるでアメリカ映画のラストシーンのような素敵な出来事ではないか。
60年後はサンフランシスコから出航
その後も堀江さんは世界の海を舞台に次々と冒険に挑んだ。ヨットによる西回りと東回りの単独無寄港世界一周、さらに世界初の縦回り世界一周、足漕ぎボートによるハワイ、沖縄間の単独航海などなど。
太平洋横断も5回成功させているが、そのうち4回の航海でサンフランシスコが出発地点か目的地に選ばれている。最初の太平洋横断の前に、堀江さんはアメリカ西海岸のシアトル、サンフランシスコ、ロスアンゼルスの3都市から航行距離や安全性を重視し、目的地としてサンフランシスコを選んだ。そうした理由に加えて、やはり長く苦労の多い航海を終え、初めてサンフランシスコに入港したときの楽しい思い出が堀江さんとサンフランシスコをつないでいるように思える。
同時にサンフランシスコという街が堀江さんをリスペクトしている点も見逃せない。なにしろ、あの日、海水浴場に係留された「マーメイド」は、今もサンフランシスコ海事博物館に晴れがましく展示されているのだから。
新しいことに果敢に挑戦する姿勢を称え、評価するフロンティアスピリットはアメリカに今も生きているのだろう。その精神を我々も大切にしたいものだ。自ら新しいことに挑戦する突破力ある人材をじっくり見守り、サポートし、成果を評価する。その姿勢が新たな成長を実現させるだろう。
堀江さんの最新の冒険は記憶に新しいところだ。あの快挙から60年目の今年3月27日、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジ下をスタートした「サントリーマーメイドⅢ号」は6月4日、紀伊水道に到着した。
これにより83歳の堀江さんは、世界最高齢での単独無寄港太平洋横断を成し遂げた。83歳!堀江さんは、60年という長い長い年月を自ら定めた進路に向けて悠々と進んでこられたのだ。脱帽である。