ベーブ・ルースという名前は子どもの頃から知っていた。私が名前を覚えたアメリカ人は、まず第35代大統領のジョン・F・ケネディ、次に西部劇のスターであるジョン・ウェイン、その次あたりがニューヨーク・ヤンキースのベーブ・ルースだったように思う。
「ベーブ」というのは、彼の童顔から付けられたニックネームだと知ったのはずいぶん後のことだったが、メジャーリーグ(当時は大リーグと言っていた)のすごい打者だ、というくらいの認識ははるか極東に暮らす少年でさえ持っていたのだろう。改めて彼のキャリアを振り返ると、まさにすごい打者である。
メジャーリーグに1914年から1935年まで在籍したベーブ・ルースは生涯714本の本塁打を放っている。これは1974年にハンク・アーロン選手によって抜かれるまではメジャー記録だった。またキャリアの中で彼は本塁打王に12回輝いている。
ルースにはホームランにまつわるエピソードも多い。有名なのは「約束のホームラン」だろう。1926年のワールドシリーズの最中、落馬により重篤な状態にある少年の父親から連絡を受けたルースは、彼のファンだという少年のためにヤンキースのチームメンバーのサインが入ったボールともう一つ、「水曜日の試合で君のためにホームランを打つ」と、ルースが書いたボールを贈る。そして実際にその試合では3本のホームランを打ってみせたのである。
1932年のワールドシリーズでもルースは伝説を残した。「予告ホームラン」である。打席に立ったルースは外野を指さし、そして予告した通り、バックスクリーンに特大のホームランを放り込むのだ。
彼が残した数字、そして伝説から、私の中の「ベーブ・ルース像」はメジャーの歴史に残る強打者、というものだった。ところがここに来て、そのルース像が揺らいできた。われらが大谷翔平選手のメジャーリーグでの投打の活躍により、比較される相手として登場するルースは「二刀流」なのである。
今回、改めて知った。ベーブ・ルースはボストン・レッドソックスで投手としてメジャーデビューを果たしているのである。投手としての生涯成績は通算94勝、最優秀防御率も一度受賞している。なるほど投手としても立派な成績である。
そしてレッドソックス時代の1918年には20試合に登板し、13勝7敗、同時にホームランを11本打っている。この記録が、現在、大谷選手の前に立ちはだかり「同一年度での10勝、かつ10本塁打」というメジャー記録だ。このコラムを執筆している8月2日時点では、9勝を挙げ、ホームランは22本という大谷選手。まだ8月上旬である。私たちは歴史が変わる瞬間を見ることができるのだろうか。
ライバルを育て、自らの闘いを有利に
さて、ここでは一旦、強打者としてのベーブ・ルースに視点を戻そう。ホームランを量産し、ヤンキース黄金時代をけん引したベーブ・ルースに対して、さすがに相手チームも勝負を避けるシーンが多くなった。そこでルースが考えた作戦が面白い。
ヤンキースの3番打者だったルースは、キャリアの浅いチームメイトであるルー・ゲーリックを直接指導し、強力な4番打者に育てていくのである。第46回の衣笠祥雄さんの回にも登場したゲーリックは、幾度も打撃タイトルを獲得する。これもメジャー史に名を残す名選手となる。そのような4番打者が控えているため、相手投手は3番打者のルースと勝負せざるをえなくなるのだ。
いくらチームメイトであっても優れた資質を備えた選手を内心ライバル視する人も多いだろう。さすがにベーブ・ルースは違うなと思わされる。自信もあったのだろうが、その着眼点はビジネスパーソンにも参考になるのではないだろうか。自分の営業成績を脅かしかねないライバルであっても、サポートする中で得られる知識やスキルもあるだろうし、そのライバルが苦手とする業界の商談相手などを担当する機会を得る可能性もある。そうした前向きな視点で同僚との関係を築くことも大切だろう。
ベーブ・ルースは、1934年11月、全米選抜チームの一員として来日し、日本で熱烈な歓迎を受け、日本びいきになったようだ。名投手である沢村栄治と対戦し、三振に打ち取られていることから、日本の野球のレベルの高さも実感したはずだ。
それでも日本の若い選手が、ほかでもないメジャーリーグの大舞台で、自分の記録を更新しようとする日が来ることまでは想像できなかったのではないだろうか。
きっと今頃、悪童のように目を輝かせて天上からゲームを見ていることだろう。