1960年に開催されたローマオリンピックのボクシング男子ライトヘビー級で金メダルを獲得したのは18歳のアフリカ系アメリカ人のカシアス・クレイだった。表彰台の中央に立つクレイ青年は、もっとも高く掲揚された星条旗を見て誇らしげにほほ笑んでいたものだ。
しかし意気揚々と生まれ育ったケンタッキー州ルイビルに戻ったクレイ青年は、レストランで食事しようとして店側から拒否された。そこは白人専用のレストランだった。当時のアメリカでは、アフリカ系市民はバスに乗る時は後部座席に座り、手洗い所も白人とは分けられていた。そんな時代だった。金メダルには何の価値もないと、オハイオ川に投げ捨ててしまったという伝説もある。
その時、彼の頭の中でゴングが鳴り響いたのかもしれない。後にモハメド・アリと改名する青年の長い闘いの日々が始まった。
蝶のように舞い、蜂のように刺す
熱い闘いがリングの「内」と「外」の二つのフィールドで展開された。
オリンピック後にすぐさまプロに転向したモハメド・アリ(1964年改名)は、華々しい戦績を挙げていく。彼は強く、そして従来の重量級ボクシングとは違うスピード感あふれるファイトスタイルは見る者を魅了した。
「私は蝶のように舞い、蜂のように刺す。
奴には私の姿は見えない。
見えない相手を打てるわけが無いだろう」
(モハメド・アリの名言・格言より)
その言葉どおり、アリは、カンフー映画のスターだったブルース・リーも役作りに取り入れたという軽快なステップでリング内を前後左右と自在に動きながら、目にも見えないような左ジャブを繰り出し、試合をリードした。
圧巻だったのは、1965年に行われたソニー・リストンとの再戦だ。前年にデビュー以来19連勝を遂げていたアリは、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者だったリストンに挑み、6回終了時にTK0(テクニカルノックアウト)で下し、統一ヘビー級王座を獲得した。
その翌年に行われたアリにとっての初防衛線、その1ラウンドだった。リストンが放った強いパンチを身体を軽く後ろに反らして避けたアリは、ひねりを加えた軽く速い右パンチをリストンの顎に打ち込んだ。まさに蜂の一刺しのように見えた。その一撃でリストンの身体はマットに沈み、動くこともできなかったのだ。
兵役を拒否し、ヘビー級王者剝奪…
アリをめぐる名勝負は枚挙にいとまがないが、忘れてはならないのが「キンシャサの奇跡」と称されるジョージ・フォアマンとの一戦だろう。
試合は1974年10月30日、アフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)で行われた。フォアマンは当時のヘビー級チャンピオンで、全盛期を過ぎたアリは圧倒的に不利というのが大方の見方だった。
試合が始まっても、アリはロープを背負い、防戦一方のように見えた。しかし顔をしっかりとガードしながら効果的なカウンターパンチを繰り出すアリの攻撃にフォアマンは徐々に疲れていく。そして8ラウンド、スタミナが切れたフォアマンはアリの右ストレートでダウンを喫する。世界中が驚いたKO劇だった。
アリは32歳になっていた。アリはアメリカ合衆国との長い闘いの末に再びリングに戻って来たのだった。
イスラム教に改宗していたアリは1960年に始まったベトナム戦争への兵役を拒否する。
「私は神の法に従う。何の罪も恨みもないベトコンに、銃を向ける理由は私にはない」
(モハメド・アリの名言・格言より)
1967年にアリはヘビー級王座とボクサーライセンスを剝奪された。アリはさまざまなメディアを通して自らの主張を訴えた。そして3年7カ月というアスリートにとっては永遠とも思える長いブランクの後、最高裁で無罪を勝ち取る。アメリカ合衆国を相手に見事判定勝ちを収めたのだ。
ボクサー引退後のアリは次のような言葉を残している。
「エルヴィスもケネディも、それにマーティン・ルーサー・キングも、みんな死んじまった。みんな塵に返るだけさ」
(モハメド・アリの道 ディヴィス・ミラー著 田栗美奈子訳)
音楽界を席巻したエルヴィス・プレスリー、第35代大統領のジョン・F・ケネディ、アフリカ系アメリカ人の公民権運動の指導者だったキング牧師。彼らと同様に、アリもまた1960年代というアメリカの激動の時代を駆け抜けた一人だ。アスリートという枠を超え、モハメド・アリはアメリカの歴史に確かな足跡を残して見せた。
モハメド・アリという名前から先日亡くなったアントニオ猪木さんとの異種格闘技戦を思い出す方も多いだろう。
試合は1976年6月に日本武道館で行われた。結果は15ラウンド引き分けで残念ながら勝敗はつかなかった。しかしビジネスという側面では大いに成功したといえるだろう。テレビ中継の最高視聴率は実に54.9%。その注目度の高さから特にプロレスの社会的認知度もかなり高くなったと思える。
ビジネス社会でも異業種とのコラボレーションは大きな可能性を秘めているといえるだろう。マーケットの拡大、認知度アップ、社内の活性化などさまざまなメリットが期待できるのではないだろうか。
1996年7月に開催されたアトランタオリンピック開会式の主役はモハメド・アリだった。アリは病に冒され、震える身体で聖火台に火をつけた。この時、36年の年月を経て、ローマオリンピックで獲得した金メダルのレプリカが再び授与されたという。
長い闘いを終えたチャンプは、その金メダルをきっと笑顔で受け取ったのだと思う。