2019年10月22日、新天皇の即位を国民に披露するパレード「祝賀御列の儀」が行われます。このときに使われるオープンカーは、トヨタ自動車の「センチュリー」です。1967年に発売を開始して以来、50年以上にわたってVIPに愛され続ける国産高級車のロングセラーです。
トヨタ自動車は1964年、「クラウンエイト」という高級車を発表しました。このクラウンエイトの後継として、「世界の高級車に引けを取らない日本独自の高級車」をめざして開発されたのがセンチュリーです。
開発の中心となったのは、初代クラウン、クラウンエイト、初代コロナなどの開発に携わった中村健也氏。トヨタ自動車の礎を築いたともいわれる人物です。中村氏はその実績から役員に推挙されましたが、これを固辞し、現場にこだわり続けた技術者でした。役員にならなかったため、「参与」という新しい役職が中村氏のために設けられたという話が残っています。
中村氏が念頭に置いたのは、「いつかは乗ってみたい」と夢を与える羨望の車にすること。そして、少なくとも10年間はモデルチェンジをせず、流行を排除することでした。ここから、風格とオリジナリティーを持った、他に類を見ない高級車が生まれます。
外装は、それまでの車には見られない、神社仏閣の建物を思わせるようなスタイル。エンブレムには鳳凰を模した意匠を用い、随所に日本の伝統文化を感じさせるものになりました。
内装も、世界の高級車に引けを取らないグレードが追求されます。シートは上級グレードのものには本革を、それ以外のグレードには専用の高級生地を使ったクロスを採用。車内には間接式エアコン、オートドアロック、パワーウインドー、AM・FMラジオ、テープレコーダーなど、当時最先端の機器を装備しました。
トヨタが技術と経験のすべてを注いだ自信作…
性能面でも日本を代表する高級車にふさわしい技術が導入されました。サスペンションには、世界でも一部の乗用車にしか使われず、国産乗用車では初となるエアサスペンションを採用。エンジンの動力を伝えるプロペラシャフトも、それまでの国産乗用車にはないシステムのシャフトを開発しました。
こうして開発されたセンチュリーは、1967年11月から市販を開始。車名は、この年がトヨタの創始者・豊田佐吉の生誕100年に当たること、また翌1968年が明治100年に当たることから命名されました。
「豪華そのものの室内。世界の高級車にもあまり例を見ない完璧な装備。この車には日本のトップメーカー、トヨタの技術と経験のすべてがそそがれています」。当時のカタログにはこのように書かれています。トヨタ自動車が自信を持って送り出したセンチュリーは、発売当初から高い評価を受けました。
その理由の1つが、後席の快適さ。センチュリーは、運転手が運転することを前提にしており、運転のしやすさはもとより、後席の快適性が重視されています。エアサスペンションのおかげで車体の上下動が少なく、またカーブ走行時にも車体が大きく傾かず、後部座席でも快適に過ごすことができます。
また後部ドアの下端が前のドアより低く、外に出やすくなっていたり、車内で靴を脱いでも降りるときすぐ靴が履けるよう靴ベラの差し込み口が設けられていたり、細かい配慮がなされていました。こうした車に仕掛けられた数々の「おもてなし」により、センチュリーは皇室、政治家、経営者といったVIPに愛用される高級車となりました。
生産台数1日3台。今も手作りされるセンチュリー
そして、開発の中心となった中村氏の思い通り、センチュリーは流行に左右されることなく、1997年まで30年間フルモデルチェンジをしませんでした。これは世界でもまれなケースです。
その後、20年以上を経て、2018年に2回目のフルモデルチェンジをした現行のセンチュリーは3代目ということです。日本の伝統と風格を感じさせるオリジナリティーあふれるデザイン、車内の豪華さ、後席の快適性などのコンセプトは初代から変わっていません。鳳凰のエンブレムも、初代から受け継がれています。
そして、センチュリーは今も初代の頃と変わらず、トヨタ自動車東日本の東富士工場で1台ずつ手作りされています。3万点近い部品を、作業者が4人1組となって組み付けを行います。生産台数は1日にたった3台。“カイゼン”によって工場で効率的に大量生産を行うトヨタ自動車においてもセンチュリーは別格なのです。
時流に合わせることで、マーケットの変化に対応して消費者に指示される商品も少なくないでしょう。しかし、いたずらに流行を追うことなく、ブランドの核となっている風格と質を守り続ける商品もあります。センチュリーはその代表でしょう。愛用者からの絶大な信頼を生み、ロングセラー足らしめている要因は、変わらないことの強さにあると思われます。