従来のものとは格段に違うなめらかな書き心地で、ボールペンに革命をもたらしたとも評されているのが三菱鉛筆の油性ボールペン、ジェットストリームです。そのスムースな書き味は世界で認められており、2003年に海外で、2006年に日本での発売が始まり、現在では世界販売本数が年間1億本を超えるという、ボールペンのベストセラーでありロングセラーです。
ジェットストリームの物語は、三菱鉛筆の開発者が油性ボールペンの開発部署に異動になったことから始まります。この開発者は油性ボールペンの担当になったものの、それまで油性ボールペンは使っておらず、もっぱら水性ボールペンを愛用していました。
水性ボールペンと油性ボールペンの違いは、インクにあります。水性ボールペンのインクは、主に水を使ったもの。一方、油性ボールペンのインクは有機溶剤を主な材料としています。水性ボールペンは、書き味が軽く、乾きやすいという利点がありますが、紙ににじみやすいという側面もあります。油性ボールペンは、にじみにくく、クッキリした線が書ける性質がありますが、インクの粘度が高いため、乾きにくく手が汚れやすい、そしてなによりも書き味が重いといった欠点がありました。
この開発者が油性ボールペンを使っていなかったのも、自分の筆圧が弱かったため、書き味が重い油性ボールペンを苦手としていたのがその理由でした。油性ボールペンの開発に携わることになったのだから、筆圧の弱い自分でも軽く書けるものを作ろう――。ここから、まったく新しい油性ボールペンの探求が始まります。
開発者は、油性ボールペンだけでなく、ボールペンの開発自体が初めてでした。従来の方法を知らない分、自由な発想で開発に取り組みます。書き味が重い、乾きにくいといった油性ボールペンの性質は、インクの溶剤に由来していると思われました。そこで、自社でも他社でも当たり前のように使われていた従来の溶剤を使うのをやめ、粘度の低いさらさらとした溶剤を使うことにします。ただ、それまで使われていなかったものだけに、安定してボールペンのインクとしての機能を果たすものにするのは容易ではありません。次々と新たな溶剤を試し、機能を追求していきました。
門外漢だからこそ前例を取り払い繰り返せたトライ&エラー…
筆記具として、粘度の低い溶剤を使いながら、インクの色の濃さを確保する必要があります。そこで試したのが、顔料でした。従来の油性ボールペンでは、色を付けるのに染料が使われていました。染料は溶剤に溶けるもので、書いた紙に色が染み込む性質があります。一方、顔料は溶けることなく細かな粉として溶剤に混ざるもので、書いた紙の表面に定着する性質を持っており、くっきりと濃い色にすることができます。
溶剤も顔料もそれまでの油性ボールペンでは使ったことがなく、社内に蓄積されたノウハウを生かすことができません。どのような溶剤と顔料を、どのような配分で使えばいいのか、試行錯誤を繰り返します。
インクの性質を変えると、ペン先の機構も従来のものでは対応できなくなりました。インクの粘度を低くすると、ペン先からインクが漏れ出やすくなってしまいます。そこで、ペンの中にバネを入れ、ペン先のボールを押さえる機構を採用。さらにペン先のボールとカバーの隙間をミクロン単位で設定し、漏れ出ることなく最適な量でインクが出るようにしました。また、インクの逆流を防ぐためにも新しい機構を採り入れ、新しい溶剤に対応する作りとしました。
こうして2003年、まず海外向けにジェットストリームを発売。これはペン先にキャップをかぶせるキャップ式でしたが、日本ではノック式が受け入れられやすいため、ノック式にするためインクにさらに改良を加えて2006年、日本でジェットストリームの発売を開始しました。
ジェットストリームは、自社従来品と比べて摩擦係数を最大50%軽減し、黒色密度は約2倍。驚異的ななめらかさでクッキリと線を書くことができるジェットストリームは、海外でも日本でも爆発的に受け入れられ、低粘度油性ボールペンブームが巻き起こるほどになりました。
ジェットストリームはインクのカラー、ボディの素材などでバリエーションが増え、2013年には高級版の「ジェットストリーム プライム」が登場。さまざまなタイプで、そのスムースな書き心地が楽しまれ続けています。
ジェットストリームの開発者は、以前はスタンプ台の開発を担当しており、油性ボールペンの開発は未経験。インクの専門家ではあったものの、油性ボールペンに関してはいってみれば門外漢でした。しかし、だからこそ従来の考え方にとらわれることなく開発を進められたように思われます。
油性ボールペンの世界では書き味が重いのが前提だったところ、その前提をあっさり乗り越えました。また、それまでの油性ボールペンで使われていた溶剤、染料にこだわることなく、新たな溶剤、顔料という新しい材料を採り入れていきました。
専門家は自分が専門とする世界の知識・経験を豊富に持っていますが、その知識・経験がアプリオリな前提となり、そこから抜け出せなくなっている場合があります。その領域の見識は深まっていますが、知識・経験外の視点をいつの間にか持てなくなっているのです。
今回のケースでは、「軽く書ける油性ボールペンがあったら」という、それまでの常識にとらわれない自由な発想が原点になりました。門外漢だからこそ出てきた、画期的な発想です。ある領域に専門的に携わっていても、自分の知識・経験の限界を認識し、そこから抜け出てみる。外からの目で眺めてみる。革命的な商品を生み出すための、ひとつのヒントがここにあります。