強い会社の着眼点(第19回)
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公開日:2019.03.29
がんこフードサービス(すしチェーンを中心とした飲食事業)
少子高齢化が進む中、中小企業の事業承継が課題になっている。後継者が見つからず倒産してしまう会社もあることなどに危機感を覚えた政府は支援を強化している。ただ、事業承継の主役は、経営者であり、自らが考え、動かないと何も解決しない。後継者をどのような基準で選ぶべきか。いつ、どのタイミングで承継するのがベストなのか。本連載は、承継を決意した経営者に話を聞いた。
第2回は大阪市淀川区の十三に拠点を置き、関西地区を中心に約100店舗を展開する外食チェーンのがんこフードサービスのケース。創業者である小嶋淳司氏は2005年に代表取締役会長に就任し、社長の座を退いた。その際は、社長を従業員から抜てき。さらにもう1人、従業員出身の社長を経て、2018年、息子である小嶋達典氏が4代目の社長に就任した。小嶋会長の後継者への思いを聞いた。
ハチマキを巻いた男性のイラストが印象的な「がんこ寿司」の看板。関西地区で暮らしていれば誰もが目にしたことがあるこの絵のモデルが、がんこフードサービス小嶋淳司会長の若き日の姿だ。
小嶋会長は1935年、和歌山県の雑貨屋で6人兄弟の末っ子として生まれた。9歳の時に父親が他界。高校生で家業を引き継ぎ店主となった小嶋会長は、ここで商売の面白さに目覚めたという。経営を学ぶため、22歳で大学に進学。卒業後に高級すし店で修業をした後、1963年にがんこ寿司を開いた。大阪・十三の4坪半の小さなお店からのスタートだった。
「資金も経験も信用もまだない自分ができる商売は何かと考えたときに、飲食業が頭に浮かんだ。今でこそ外食産業と呼ばれる立派なビジネス分野になったが、当時は全国展開するような大きな企業はまだなかった。遅れていたからこそ、私にもチャンスがあると考えた」(小嶋会長)
当時のすし店は、その日の仕入れ値によって顧客に提供する値段が変わる「時価」の仕組みが常識だった。「値段を提示せずにお客さまに売るなんて常識外。魚の金額が上下しても、それを平均する能力があれば、定価ですし屋の商売はできる」と小嶋会長は考えた。
少しでも多くの人に食べてもらうため、価格は修業した高級すし店の5分の1に設定した。顧客を喜ばせたい一心で、ネタは両サイドに垂れるくらい大きくして一皿に3貫載せた。大衆向けに安価でなおかつ質の良いすしが食べられるがんこ寿司はたちまち人気となり、創業から2年後には同じ十三に120坪の2号店を出店した。
現在、がんこフードサービスの店舗は全国に約100店舗。関西を代表する外食チェーンへと成長した。そんな小嶋会長が最初に事業を承継し、会長となったのは2005年のことだった。このタイミングは、「ちょうど関西経済同友会の代表幹事に就任することが決まり、社長業をしていては対外活動に専念できないだろう」と考えての決断だった。後任社長に選んだのは、当時副社長だった志賀茂氏だった。「実は、かなり早いタイミングから私の後を任せるのは志賀だと考えていた」と話す小嶋氏だが、なぜ、数多くいる従業員の中から志賀氏を後継者に選んだのだろうか。
「志賀は20代の頃からずっと横で私の仕事を見ており、ほうきの持ち方や雑巾がけの仕方から私が教えた。大事なのは個別の能力よりは人柄。誠実で素直という素養のほか、考え方にも広がりがあった」(小嶋会長)
その後、13年には、同じく従業員出身で志賀氏より約10歳若い東川浩之氏が3代目の社長に就任。社員から社長に抜てきされた2人を挟んだ後、18年に小嶋会長の長男である小嶋達典氏が4代目社長に就任した。
「意識したわけではないけれど、ちょうど10年くらいの周期で、10歳ほど若い社長にバトンタッチしてきた。社長が成長する過程を見ることができ、また若さもあるので、10歳違いくらいがちょうどよいと感じる。血縁者である息子が社長に就任したことで、社内に落ち着きが出た。しかし、私自身は必ずしも後継者は血縁者である必要はないと考えている。社員から選ぶことで自分にもチャンスがあると思えることが、社員たちの励みにもなるだろう」(小嶋会長)
現社長の小嶋達典氏は、父親の会社をいずれ承継することを見据えて、大学卒業後に京都の老舗日本料理店「桜田」で自らの意志で住み込み修業をした。飲食業界のしきたりを学んだ後、今度は会社組織を学ぶため、三洋電機に入社し、2年間働いた。
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執筆=尾越 まり恵
同志社大学文学部を卒業後、9年間リクルートメディアコミュニケーションズ(現:リクルートコミュニケーションズ)に勤務。2011年に退職、フリーに。現在、日経BP日経トップリーダー編集部委嘱ライター。
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「事業承継」社長の英断と引き際