ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
似ているようで違う、法人向け光回線の選び方
公開日:2019.07.29
坂東太郎(ファミリー向けレストランチェーンの運営)
事業承継を果たした経営者を紹介する連載の第6回は、茨城県を中心に、ファミリー向けの飲食チェーンなどを展開する坂東太郎のケース。看板店であるそば・うどん・すしの和食ファミリーレストラン「ばんどう太郎」のほか、焼き肉、とんかつ、すし、ステーキ、カニ、コーヒーといった専門店も営業している。
創業者の青谷洋治会長は、「親孝行・人間大好き企業」を経営理念として、社員を幸せにする会社経営を続けてきた。2016年に息子の英将氏に会社を承継したが、現在も代表権を持つ会長として坂東太郎の経営を支えている。事業承継の方針に込められた青谷会長の思いに迫る。
郊外型ファミリーレストランをチェーン展開する坂東太郎は、「親孝行・人間大好き企業」という一風変わった経営理念を持つ。この場合の「親」とは、生みの親だけでなく上司や先輩など、お世話になったすべての人のことだとしている。この経営理念を考えたのが、創業者の青谷洋治会長だ。
同社を象徴する制度の1つが、店舗でフロアサービスを担当する女性従業員を「女将さん」と名付けた「女将制度」だ。パートで働く女性従業員の定着に悩んだ青谷会長が考え、2007年に導入にした。店舗ごとに任命された女将はリーダー的な役割を担う。現在は約70人の女将さんがおり、年に一度全員が集まる女将大会も実施する。
「“女将さん”は魔法の言葉。役職を与えることで、やりがいや責任感が生まれ、みんな生き生きと仕事をするようになった」と青谷会長は話す。
青谷会長は1951年、茨城県で野菜を栽培する農家の長男として生まれた。当時、農家の息子は家業を継ぐことが当たり前とされていた。そのため、青谷会長が小学校の卒業文集に書いた「社長になりたい」という夢は、周囲を驚かせた。同級生たちは、「青谷が社長になんかなれるわけがない」とからかったという。「そのとき自分の中に生まれた悔しさは、今も自分の胸の中にある」と青谷会長は話す。
農家に生まれたから、農家として生きる。そんな決められたレールから抜け出して、自分の人生を歩みたいという思いがあった。しかし、中学3年生の2月、病気で母親が亡くなる。戦争から帰ってきた父は心臓を患っており、思うように働ける状態ではなかった。青谷会長は高校進学を諦め、家業を継ぐしかなかった。
忘れかけていた夢がよみがえったのは、20歳の時だった。そば屋を立ち上げる知り合いがアルバイトを募集しているという話を聞き、どうしても「社長になりたい」という夢を追いかけたくなった。農家を手伝ってくれた妹のおかげで、青谷会長は飲食の世界に足を踏み入れることになる。
「家族に迷惑をかけてまでこの道を志したのだから、必ず成功しなければならない」という一心で、青谷会長は修業に励んだ。飲食の世界は、一人前になるのに10年はかかるといわれていたが、3年半で独立を果たす。1975年、青谷会長が24歳の時に、茨城県の境町に1号店をオープンした。20坪ほどの小さなお店からのスタートだった。
創業後、順調に業績を伸ばし、5店舗を運営するまで成長していた。86年には法人化を実現。ところが、そんな青谷氏をピンチが襲う。バブル崩壊直前の1990年頃、人手が足りなくなってしまったのだ。募集をしても応募者がいない。採用してもすぐに辞めてしまう。古株社員が次々とお店を離れていく。それでもお客さまは日々たくさん来るため、業務に支障が出る。これ以上スタッフが辞めたら労務倒産してしまう、という経営危機に陥ったという。
まずは、従業員をしっかり休ませなければと考えた青谷会長は、閉店後、従業員をすぐに帰して、お店の片付けや翌日の準備は自らがするようになった。5店舗すべての業務を終え、朝方、帰り道に必ず母親の墓に行き、手を合わせる毎日だった。大きな危機感を抱えて、当時の青谷会長には、母親に祈るしかすべがなかったのだ。
そんな日々が数カ月続いたある日、墓参りをしているとふっと体の力が抜け、母親の声が聞こえたという。
「働く人が幸せじゃないから、社員は辞めていくんだよ」
幻聴かもしれないこの言葉に、青谷会長は目が覚める思いだったという。青谷会長はすぐに全従業員を集め、頭を下げた。「みんなを幸せにしようと思ってやってきたけれど、心の底からみんなにその思いが伝わっていなかったと思う。申し訳ない」。
そして、従業員全員の家庭を訪問して、家族や生活環境まで理解しようと努めた。また、1人ひとりと膝を突き合わせて座って話す「社長塾」を始めた。従業員は任意で参加できる仕組みで、夢や目標を語ったり、時には不平不満も漏らしたりもする。この社長塾は、現社長の英将氏にも受け継がれている。
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執筆=尾越 まり恵
同志社大学文学部を卒業後、9年間リクルートメディアコミュニケーションズ(現:リクルートコミュニケーションズ)に勤務。2011年に退職、フリーに。現在、日経BP日経トップリーダー編集部委嘱ライター。
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「事業承継」社長の英断と引き際