北雪酒造(日本酒の製造・販売)
新潟県佐渡市の北雪酒造は、羽豆史郎会長の曽祖父が明治5年に個人商店として創業した。1948年に有限会社羽豆酒造場設立。1993年に社名に変更。現在は50人の従業員が働いている
事業承継を果たした経営者を紹介する連載の第7回は、新潟県佐渡市で日本酒を製造・販売する北雪酒造のケース。同社は明治5(1872)年の創業以来、約150年にわたり守り続けてきた「北雪」ブランドの日本酒が、多くのファンに親しまれている酒造メーカーだ。
5代目社長を務めた羽豆史郎(はず ふみお)会長は、2019年4月に次男の羽豆大(ひろし)氏に事業を承継した。
消費者の声を大事にする
羽豆会長は、男5人、女5人の10人兄弟の末っ子として生まれた。そのため、酒蔵の息子ではあるものの、「自分が後を継ぐとは考えたことがなかった」と言う。
実際、父の後を継いだのは、18歳年上の長男だった。羽豆会長は東京の大学を卒業した後、北雪酒造(当時は有限会社羽豆酒造場)に入社し、埼玉県の営業拠点で働いた。その後佐渡市の本社に戻り、2番目の兄が専務、羽豆会長が常務として長兄の社長を支える体制が続く。そして、長兄が65歳になり、引退を考えて後を託したのは、専務ではなく羽豆会長だった。
「もともと長男と次男は方針が合わず、よくケンカをしていた」と話す羽豆会長。「兄の言葉には驚いたが、専務は営業で経営は私と社長とで担ってきた。最初から私に引き継ぐつもりだったのだろう」と振り返る。
羽豆史郎(はず・ふみお)会長 1958年、新潟県佐渡市生まれ。1981年、大学卒業と同時に北雪酒造に入社。常務として働いた後、2005年に代表取締役社長に就任。業績が低迷していた北雪酒造を立て直し、19年4月に次男の大氏に事業を承継。代表取締役会長となる
先代が経営を退いた後、羽豆会長の懸念は残った専務と方針が合わないことだった。「意見の合わないトップが2人いるような体制は、会社経営のために良くない」と考え、「社長を託された自分の方針と合わないなら、次男が社長をやればいい。社長にならないなら会社から去ってほしい」と2つの選択肢を伝えた。結果、専務が会社を去ることになったという。羽豆会長は2005年、46歳の時に5代目社長となった。
実は、当時の北雪酒造の経営は苦境に立たされていた。新潟県の淡麗辛口の日本酒は人気が下火になり、焼酎ブームなど他の嗜好品もたくさん出てきた。それらいくつかの要因が重なって、ピーク時に12億円あった売り上げは、6億円を切るほどまでに落ち込んでいた。
何とか経営を立て直さなくてはならない。羽豆会長は経営改革に乗り出した。その1つが国内需要対応に専念したことだ。それまでは、海外に商品を輸出するだけでなく、米国に店舗を設けるなど国際化を図っていた。「海外での商売はテロや国際情勢によって、大きな影響を受ける。国内需要を伸ばすことが重要」と羽豆会長は考えた。
どうしたら、北雪のファンを増やし、国内需要を盛り返すことができるのか。考えていたときに、羽豆会長は日本酒のラベルに載せていた北雪酒造の電話番号に、商品を購入した消費者から直接問い合わせが来ていることを思い出した。「3年前の日本酒が出てきたが、まだ飲めるのか」といった、さまざまな問い合わせが来ていたのである。
北雪酒造が商品を取引するのは酒屋や問屋だが、実際に北雪を飲んでくれるのは、一般消費者だ。だからこそ「一般消費者の声を聞こう」と思い立った。
それから、お客さまの声を直接聞く機会として、積極的に百貨店で試飲販売を行った。その声を参考に商品の改良を進め、当時増え過ぎていた商品を整理した。新しい商品を1つ製造したら、売れ行きの悪い商品を下から3つカットしていったという。当時の北雪は「甘口も辛口もあり、結局、どんな特徴のある酒を造っているのかよく分からない」という消費者の声は、羽豆会長の心に響いた。
今でも北雪酒造では、全国各地の百貨店で試飲販売を実施し、お客さまの声を聞くことを大事にしている。消費者と直接触れ合うことで、口コミでの人気を獲得。売り上げは順調に伸び続け、2018年には、10億円にまで戻った。
息子に難しい仕事を任せて、社員の信頼を得る…
羽豆会長は、自動車のディーラーとして働いていた次男の大氏を2011年10月に新潟に呼び戻した。「長男は別の道を歩んでいる。次男が反対すれば他の手段を考えるしかないが、できれば後を継いでほしい」という思いがあったからだ。この時から羽豆会長は自身の引退時期を60歳と定め、大氏にも周囲にも宣言した。
しかし、突然跡取りとして入ってきた息子を、社員たちがすんなり受け入れるのは難しい。大氏の入社から2カ月後の12月、羽豆会長はちょうどクリスマスに向けたスパークリング梅酒1万本の注文を受けていた。ただでさえ現場が忙しい時期で、「無理です」と悲鳴を上げていた。納期まで実質20日間ほど。1本ずつ手作業で作るために、1日500本しかできない。休みなしで働いてギリギリだ。
羽豆会長は、これはチャンスだと考え、そのプロジェクトを大氏に任せることにした。「計画を立ててやれ」と一言伝え、進捗は聞くが、手伝ったりはしなかったという。大氏は1万本のスパークリング梅酒の製造を見事にやり切った。そこから現場社員の大氏を見る目が変わったという。羽豆会長は、大氏にあえて無理難題をクリアさせ、社員の信頼を得られるよう取り計らったのだ。
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淡麗辛口が売りの北雪。「北雪 大吟醸 YK35」は、山田錦という酒造によく合う米を35%まで磨き上げた、北雪ブランドの中でも人気の大吟醸酒[/caption]
2019年4月、宣言した通り羽豆会長は60歳で、32歳の大氏に事業を承継した。65歳までは代表権を持つ会長として、大氏をサポートする予定だ。その後は相談役として名前は残すものの、経営はすべて大氏に任せたいと考えている。
「社長として一番苦労するのが、資金繰りだ」と話す羽豆会長。北雪酒造の酒造米の購入資金は毎年約1億円以上。現金払いが慣例になっている。この現金をどう調達するのかを考えるのも社長の重要な仕事。この秋の仕込みから、大氏にこうした資金繰りも任せる予定だ。
今後、羽豆会長が大氏に期待することを聞いた。
「私のやり方をそのまま受け継いでも仕方ない。社長が代わったら、自分の方向性で経営していいと思う。自分も先代のやり方から大きく変えてきた。極端な話をすれば、日本酒の味さえ変えていいと思っている」と変革に期待する羽豆会長。
その一方で、「ただ、お客さまの方を向いて、真摯に商売をする。そこだけは変わらないでほしい。お客さまのニーズに合わないものは、絶対に残っていかない。嗜好の変化、ニーズの変化を捉え、変化していける会社が生き残れる。お客さまの嗜好は常に変わる。それがものづくりの難しさでもあり、また面白さでもある」とアドバイスする。
羽豆会長が考える社長業の重要な柱は、「ブランドの継続と、従業員の雇用の継続」。50人の社員がいたら、その後ろには100~150人の家族がいる。「北雪」ブランドと同時にその人たちの生活を守ることが社長の仕事だと大氏に伝えている。
銀行と良好な関係を維持する
円滑に承継できる一番の秘訣について、羽豆会長は「早めに承継すること」を挙げた。
「早く代わって勉強する機会を与えるべき。引き継ぐ側が頭も体も元気なうちの方がうまくいく。体調不良などで代わらざるを得なくなって突然代わると、承継された側は苦労する。後継者が未熟に見えて、任せるのが心配な面も当然あると思う。しかし、いつかは代わらないといけないのだから、計画的に承継した方がお互いのストレスが少なくて済む。承継時期をあらかじめ決めて宣言しておくことも大事だ」
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19年4月に事業を承継した羽豆会長(右)と、次男で6代目社長に就任した大氏。「お客さまに真摯に向き合い、北雪ブランドを守ってほしい」と羽豆会長は若き新社長に期待を寄せる[/caption]
羽豆会長はメインバンクが提供している有料の相談窓口で2年ほど事業承継に関するアドバイスを受けた。事業承継のさまざまなケースを教えてもらえて役に立ったという。
有料相談を受けようと考えたのは、承継後も銀行との関係を良好にしたいという羽豆会長の配慮もあった。「いきなり若い社長に代わると、従来と同じ取引をしてもらえなくなる可能性もある。その点、どのように考え、どういうプロセスで承継したのか、銀行に見てもらっていれば、そうした心配は少なくなる」と考えたのだ。
現在は、もちろん融資の金利の交渉なども、大氏も一緒に同席させて見せており、「今のうちに、お金の借り方を学んでほしい」と考えている。
5年後に引退した後は、相談役として「何か新社長の手助けをできれば」と羽豆会長は考えている。「まだ具体的には考えていないけれど、若い営業を連れて、全国のお世話になった人たちを水戸黄門のように挨拶回りでもしたい。そこで聞いたお客さまの声をフィードバックできれば、少しは会社の役に立てるのではないか」と羽豆会長は話す。
これからの北雪ブランド発展のため、羽豆会長は大氏を支えていく。