サンコー(印刷・製版業)
事業承継を果たした経営者を紹介する連載の第11回は、東京・墨田区の印刷会社サンコーの3代にわたる事業承継を紹介する。2代目に当たる72歳の有薗克明会長に話を聞いた。
有薗克明(ありぞの・かつあき)会長
1947年生まれ。中央大学法学部を卒業後、カメラメーカーの営業を経て72年に父が創業したサンコーに入社。83年に代表取締役社長に就任。2017年に代表取締役会長となり現職。写真は2015年に同社が開業した「co-lab墨田亀沢:re-printing」で撮影
サンコーは有薗会長の父が1967年に写真製版の会社として設立した。父親は知り合いの印刷会社を引き受け社長となったが、工場の火災を理由に会社は解散してしまう。その後、5人の社員と一緒に三幸写真製版(現・サンコー)を立ち上げたのが始まりだ。当時の印刷業界は多くの会社の分業で成り立っており、サンコーはその中間工程である製版業を担っていた。
長男として生まれ育った有薗会長は、直接父親から会社の話をされたことはないというが、「当社のような零細企業の場合、会社というより家業。長男は家業を継ぐべきという暗黙の了解があった。赤字続きの小さな会社だったが、高校生の頃から会社を継がなくては、と漠然と考えていた」と有薗会長は話す。
早く家業を手伝いたいと考えた有薗会長は、高校卒業後すぐに働こうとしたが、自身が大学を出ていなかった父は、息子には大学を卒業してほしいと望んだ。「大学に行き、人間を洗練させろ」と言った父の言葉を、有薗会長は今でも鮮明に覚えている。
大学卒業後はカメラメーカーで2年弱働き、大学や病院、研究所などに顕微鏡を販売する営業を担当した。その後、1972年にサンコーに入社。当時、社員は10人ほどいたが創業以来赤字が続き、経営状況は悪かったという。1年間、現場で印刷の技術を学んだ有薗会長は、「利益をきちんと出せる会社にしなければ」と顧客開拓に注力する。入社から3年目には売り上げが倍増。初めて年商が1億円を超えた。
スカイツリー開業に活路見いだす
1990年代後半、印刷業にデジタル化の波が押し寄せる。デジタルを活用した印刷プロセスを米国で見た有薗会長は、「今後、日本でもデジタル化が進む。近い将来フィルム製版の仕事はなくなるだろう」と確信した。
2001年、有薗会長は製版業から印刷業への転向を決意する。まずは小さな印刷機を導入した。当時小ロットのカラー印刷ができる会社が少なかったため、印刷会社からの依頼が殺到。03年には1億円ほどを投資して、大型の「半裁オフセット四色印刷機」を導入した。
印刷事業への転向はうまくいったかに見えた。売り上げは順調に上がり、ピーク時は3億6000万円ほどになった。2008年5月、さらに受注量を増やすために銀行から融資を受け、追加でオフセット印刷機を購入した。しかし、その半年後、経営環境が激変する。リーマン・ショックが起き、印刷物の受注が激減したのである。
その後、日本経済の景気が上向いても、印刷市場は縮小の一途をたどっている。「この25年間で、墨田地域にあった印刷会社は半数以下に減った。これが印刷業界の現実」と有薗会長は話す。
しかし、厳しい経営状況の中でサンコーは一つの活路を見いだした。2012年のスカイツリー開業だ。開業1年前、サンコーは中学生が考えるお土産品コンテストのイベントにチラシやポスター印刷で協力した。優秀賞が発表された後の会場で「商品化できる会社はありませんか?」との商品開発担当者の問いかけに、有薗会長は勢いよく手を挙げた。
スカイツリーのお土産品の企画・製造を担う。現在約80アイテムを納品している
現在、便箋やメモ帳などの紙製品だけでなく、中学生が描いたスカイツリーの絵をプリントしたマグカップや、水を入れたら色が変わるグラスなど、取引先と連携して企画・製造し、80アイテムをスカイツリーのお土産品として提供している。
スカイツリー関連事業は、同社にとって印刷から企画・デザインへと業態が広がるチャンスとなった。スカイツリー開業から数年間、お土産品は飛ぶように売れた。徐々に売れ行きは落ちているものの、お土産品は現在も同社の売り上げの大きな割合を占めている。
ようやく一息ついたかに見えたサンコーだったが、試練はその後も続いた。2013年に本社オフィスとして借りていたビルのオーナーが倒産し、競売にかけられるピンチに襲われたのだ。新しいオフィスに移転するにはコストがかかる。このとき有薗会長は、「印刷会社はもう無理だ。会社を畳もう」とも考えたという。だが、思いとどまった。長男の悦克(よしかつ)社長の存在があったからだ。
印刷を強みに新規事業を展開していく…
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有薗会長(左)と長男の悦克社長。上場企業の経営メンバーだった悦克社長はサンコーを引き継ぐことに大きなちゅうちょがあったというが、「会社を継ぐことが長男としての務め。この小さな会社を再生できなければ、雇われ経営者としてのキャリアも失敗していたはず」と覚悟を決めた[/caption]
大学卒業後、悦克社長はCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)に入社。「当時まだベンチャーだったCCCなら、経営に近いところで仕事ができるのではないか」と考えたという。10年ほど店舗展開などを担当。その後32歳でCDや書籍を販売する新星堂に転籍し、最年少の執行役員に就任。サンコーのピンチのとき、悦克社長は本業の合間に有薗会長をサポートしてくれたという。2013年にビルのオーナーが倒産した後、金融機関の協力もあり、ビルをサンコーが買い取ることができた。その混乱の時期に当時38歳だった悦克社長がサンコーに正式に入社した。
「印刷業を継いでほしいと私の口から言ったことはない。未来が読めない業界の会社を息子に託していいのか、不安があった。家内は大反対だった。ただ、息子は私と同じように、高校生の頃から長男の自分が家業を継がなければ、という意識があったと話してくれた。私は30代半ばで社長になり、20年間ほどはデジタル化に奔走した。ある意味それは成功したと言えるだろう。しかし、2008年にリーマン・ショックが起こり、すっかり自信を失っていた」(有薗会長)
会社員として経験を積み、プレゼンや社員教育にもたけていた悦克社長を有薗会長は頼もしく迎えた。「印刷物は完全になくなることはない。印刷会社はこの先も減っていくだろうが、生き残る会社もあるはず。生き残る側の会社になれるよう、今さまざまな戦略を社長が社員と一緒に一生懸命模索している」と有薗会長は話す。
その一例がシェアオフィスの開業だ。2015年、クリエイター専用のシェアオフィスを「co-lab」を展開する春蒔プロジェクトと組み、自社ビルの空きフロアに「co-lab墨田亀沢:re-printing」をオープンした。ビルの改装にはかなりの初期投資が必要だったが、墨田区の補助金を活用することで資金繰りの問題を解決した。事務所やフリーデスクとしてデザイナーやカメラマンなどのクリエイターが月額で契約し活用している。
「クリエイターに特化したことがポイント。印刷を軸に、当社ができることは相談にも乗るし、実際に利用者から印刷の依頼もある。また、それぞれの利用者が仕事で手を組めるよう、業務内容を発信する場をつくったり、定期的に懇親会を開催したりしている」と有薗会長は説明する。現在、開業から5年目となり、シェアオフィス単体でも収益は黒字化している。
2019年度の売り上げはリーマン・ショック以前にまでは戻ってないが、回復基調にはある。今後は印刷業以外にどのように広げていけるかがポイントだと有薗会長は見ている。
2017年、悦克氏が代表取締役社長に就任すると同時に、自分は代表権を持つ会長になった。「社長と共同代表にすると、重要な意思決定にはハンコが2つ必要になる。経営は基本的に社長に任せて思い通りにやってもらうが、最後の決裁は私も関わる体制を取っている。ただ、社内に2つの権力が存在すると社員が混乱する。自分は一歩下がって社長を支えることを意識している」(有薗会長)
趣味のスキーにも一緒に出掛ける有薗会長と悦克社長。仲が良さそうに見えるが「2人きりになれば怒鳴り合いのケンカもする」と苦笑いする。「ケンカができるのも、親子だからこそ。他人だったらここまで感情的にはならず、割り切れるのだろう。だから、親子は難しい。親子だからこそ沸き起こる感情なのか、必要な議論なのか、冷静に見極めることが大事だと感じている」(有薗会長)
そんな有薗会長はこれから悦克社長に期待することを次のように語った。
「非常に厳しい業界の中で、印刷物を刷る事業だけにこだわらず、企画デザインをはじめさまざまな業態にチャレンジしてほしい。ただ、印刷技術を持っていることが弱みにはならない。印刷は大量の情報を発信できる貴重な技術。それを強みにして、新しいビジネスをつくってほしい」
有薗会長はこれから次世代への承継を控えた経営者に向けて次のようにアドバイスする。「あらゆる業界で、ビジネスモデルがこの30年ほどで急激に変わっている。我々世代は以前の感覚は通用しないと認めて、トップの地位にしがみつかずに早く次世代に譲るべきだ。例えば、私もあらゆるSNSを利用しているが、やはり若者と同じ感覚では使いこなせていない。新しいものを使いこなし、さらに創造するのは、我々ではない。新しい世代に期待するしかない」
「今後は週に数日出社する程度にして、趣味の版画のワークショップなどに時間を使いたい」と有薗会長。一線を退いた後も充実した生活を送るようだ。