強い会社の着眼点(第19回)
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公開日:2020.11.25
三福工業(ゴム・合成樹脂を用いた複合素材の製造・販売)前編
事業承継を果たした経営者を紹介する連載の第22回は、三福(みつふく)工業の5代目社長の三井福次郎会長。同社は1867年に栃木県佐野市で創業して以来、三井家が事業を承継。三井家では、家長を代々「福次郎」と改名してきた。三井会長は1979年に父から事業を受け継ぎ、2014年に息子の福太郎氏に事業承継するまで社長を務めた。
三福工業の事業は大きく2つ。一つは樹脂にカーボン、炭酸カルシウムなどを練り込んでペレット状にするコンパウンド事業で、約40億円の総売り上げのうち75%ほどを占める主力事業になっている。もう一つが発泡体事業で、樹脂を練り合わせて発泡させた製品を製造している。発泡製品は緩衝性や耐寒耐熱、耐水性などに優れているので、アスファルトやコンクリートが気温による伸縮で亀裂が入るのを防ぐため緩衝材の役目を果たしたり、住宅のフローリングが平らになるように床の下に取り付けたりするなど、土木資材や住宅建材として使われている。
今でこそ複合素材メーカーとして事業を展開している三福工業だが、もともとは1867年に米穀商・三井福次郎商店としてスタートした。その後、1910年代、3代目となる三井会長の祖父の時代に、味噌・しょうゆの製造・販売が事業の主軸となった。さらに、藤倉ゴム工業の協力工場として味噌蔵の片隅でゴムを作り、運動靴の製造も始めた。
戦後間もない1948年、食品衛生法が施行され、衛生管理のための設備に多額のコストがかかることから味噌・しょうゆ製造から撤退し、運動靴の製造に力を入れた。この時、現在の三福工業という社名で法人化した。
当初はゴム底にただ布を縫い付けたような簡素な運動靴だったが、人々の生活が豊かになるにつれ、履き心地や歩きやすさが求められるようになり、ゴム底に発泡体を入れるなどの加工が始まった。ここでゴムや発泡体の加工、製造の技術を養った。
1948年に生まれた三井会長が物心ついた時の家業は運動靴の製造だった。中学校までを佐野市で過ごし、高校からは埼玉の立教新座高校に進学し寮生活を送った。大学は立教大学法学部に進学。当時4代目社長を務めていた父の体調があまり良くなかったために、大学卒業後すぐに三福工業に入社した。
5年強、父と一緒に働いたが、79年に脳出血で父親が急逝する。遺書もなく、30歳で突然、三井会長が三福工業の代表を引き継ぐことになった。それまでの福則という名前から福次郎に改名し、三井会長が5代目社長に就任した。「ある日突然社長になり、最初の10年は無我夢中でした。今振り返っても、よくやったなと思います」と三井会長は当時を振り返る。
三井会長が社長に就任し、業務に懸命に取り組んでいた1980年代半ばに差し掛かる頃、運動靴の市場に変化が起こった。韓国や台湾製の安い製品が日本に入ってくるようになったのだ。同社が運動靴に参入するきっかけとなった得意先の藤倉ゴム工業も運動靴から撤退。三福工業では縫製を担当する女性社員を多く抱えていたため、しばらくはアパレル会社などから縫製を請け負ったりしたが、コンサルタントに依頼し、女性社員が働きやすい環境を整えて黒字化したタイミングで縫製事業を売却した。
ここから三福工業はゴムと発泡体の加工・製造に事業を絞っていく。当時はスリッパの中に入れる発泡体で大きな利益を上げた。だが、こちらも中国からの輸入品が増えたことで先細りとなってしまった。そこから現在の主軸となっている土木資材へとシフト。2011年の東日本大震災以降、道路や堤防の復旧活動が続いており、コロナ禍においても堅調だという。
三井会長が社長に就任した際の売り上げは約3000万円で“家業”の状態だったが、2020年3月期には40億円強を売り上げ、従業員170人を抱える立派な“企業”へと育っている。引き継ぎもなく突然社長となった三井会長だが、自身はどのように後継者を育てていったのだろうか。
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執筆=尾越 まり恵
同志社大学文学部を卒業後、9年間リクルートメディアコミュニケーションズ(現:リクルートコミュニケーションズ)に勤務。2011年に退職、フリーに。現在、日経BP日経トップリーダー編集部委嘱ライター。
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「事業承継」社長の英断と引き際