事業承継を果たした経営者を紹介する連載の第24回・第25回は、東邦レオ(大阪市)の橘俊夫会長の話を紹介する。同社は1965年に橘俊夫会長の父・泰治(やすはる)氏が創業し、その後、橘会長が2代目社長としてバトンをつないだ。2016年に現社長の吉川稔氏に事業を承継し、現在は会長として同社の成長を支える。
創業者である泰治氏は、建築資材を扱う商社に勤務していた時代に、「黒曜石パーライト」という、当時まだ珍しかった断熱吸音材と出合う。泰治氏はこのパーライトの質の良さに注目した。高度経済成長期で、鉄筋コンクリートの建物が次々と建設されていた時代に、このパーライトを素材として、天井材、壁材、床材などの建築資材を製造・販売する会社として仲間たち数人と立ち上げたのが、東邦レオの前身となる共栄パーライト販売だ。
現在はパーライトを建築資材ではなく、土の中に混ぜる土壌改良剤として活用し、建物の屋上緑化や壁面緑化を手掛けるようになった。さらに空間デザインなど、幅広く“グリーンインフラ”事業を展開している。
「すでにある市場に参入するのではなく、人々にとって必要なものを想像し、新たな市場や商品を作ってきた。東邦レオは、創業以来そういうDNAを持っている会社です」と橘会長は胸を張る。
1965年に父が脱サラして会社を興したとき、橘会長は15歳だった。その当時のことを、橘会長はよく覚えているという。
「15歳まで私はサラリーマンの息子でした。きちんとした会社で、それなりの立場にいた父が、突然会社を辞めた。兄が高校生、私が中学生で、一番お金のかかるときに、すべてを投げうって会社を作るという決断は、簡単にできるものではありません。父は特定の宗教に入信しているわけではありませんが、その頃、朝晩ずっとお経を唱えていました。その背中には、何かを成し遂げようとしている人ならではの迫力がありました」(橘会長)
橘会長は次男だったため、父が興した会社を継ぐことを考えておらず、大学卒業後は日本交通公社(現JTB)に入社。しかし、約1年後に父が脳腫瘍の疑いで入院することになる。「せっかく父が作った会社だから、何とかサポートしたい」と考え、74年に兄と2人で東邦レオに入社した。
東邦レオはちょうど創業10周年を迎えるタイミングで、従業員100人程度、売り上げ10億円ほどの規模に成長していた。
「当時は社名を東邦パーライトと改めており、このパーライトという独自商品の強みがあり、競合もいない状態。ヒト・モノ・カネでいうと、モノとカネは申し分ない。ただ1つ、ヒトの面が弱いなと感じた」と橘会長は話す。
「商品が強過ぎるために、言い方は悪いが、社員はどんな人でも良かったんです。むしろ、変に優秀な人よりも、黙って言われた仕事をこなせる人のほうが会社としては都合が良かった。同年代の社員になぜこの会社で働いているのかと尋ねたら、みんなが口をそろえて『ほかに行く所がないから』『賞与がいいから』と答えました。会社の未来を作るのは人の思いです。どんな人間がどんな思いで働いているかが、5年後、10年後の会社を作るわけです。会社の業績はいいときもあれば、悪いときもある。今は賞与を出せるからいいけど、悪いときに頑張る人間がいないと、この会社は続かない。人はものすごく大事だ、と思いました」(橘会長)
そこで、橘会長は社員教育を始めた。しかし「そんなつもりで入社していない」と反発する社員たちが何人も辞めていった。「最初からどんな会社にしたいのか、ビジョンをしっかり伝えて共感してくれる社員を採用しなければダメだ」と考えた橘会長は、新卒採用を始めた。
創業以来初めて、新卒採用向けに説明会を開き、筆記試験や面接などの採用試験を実施。初年度は300人ほどが会社訪問し50人が採用試験に応募。その中から10人の新卒1期生を採用した。
「当時はこの規模の中小企業が大卒の新卒採用に力を入れているのは珍しく、メディアにも取り上げられました。自分自身、大学時代はあまり勉強しなかったけれど、お金をためて世界一周旅行をするなど、自分で計画を立て実行してきました。そのため、採用では学歴ではなく、どんな考えの下で目標を設定しているのか、また、自分が決めた目標に向かってどのように努力しているかを重視しました」(橘会長)
橘会長が採用したプロパー社員が社内に増えてきて、少しずつ雰囲気も変わり始めた。一命をとりとめ復帰した父が社長、兄が専務、橘会長が常務を務めた。橘会長は人の採用、育成と同時に、企業理念の浸透に力を入れた。その結果、バブル経済に乗り、創業25年目には売り上げは51億円にまで成長。父は70歳になっており、代替わりの時期が近づいていた。
社外から新しい発想や価値観を取り入れる
1990年、橘会長が40歳、父親が70歳、創業から25年のタイミングで、父からの打診により事業を承継することになった。父が相談役、兄が会長となり、実務は橘会長が担った。
「父は非常に信念の強い人で、企業は利益を出すためにある、という考えの下、創業から25年間、一度も赤字を出したことがありません。引き継いだときは、私も赤字を出すわけにはいかない、とものすごくプレッシャーを感じました」(橘会長)
また、橘会長は父の退任を目の当たりにして、“社長の引き際”についても考えたという。
「順調に成長してきた会社を退く決断をした父に対して感じたのは、何よりも尊敬の思いです。人は成功したものを手放したくないものです。まして、創業社長であれば、自分のやりたいところまでやりたいと考えるはず。それでも父は、自分の思いよりも会社の未来を優先して退任を決めました。この姿勢を、自分自身も見習わなければならないと思いました。社長にとって一番大事な仕事は、どのタイミングでどの人に事業を引き継ぐか、ということです。それがうまくできなければ、社長としてどれだけ業績を上げたとしても意味はないと思いました」と橘会長は話す。
就任直後から自身の引き際についても考えていたという橘会長は、退任のタイミングは60歳くらいがいいのではないかと漠然としたイメージを持っていた。父から引き継いだこの会社を誰に引き継ぐのか――、結果的に、橘会長が後継者として選んだのは、社外から来た第三者である吉川稔氏だった。