オフィスあるある4コマ(第45回)
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公開日:2021.03.23
ナベル(鶏卵の自動選別包装装置の開発・製造・販売・修理)
事業承継を果たした経営者を紹介する連載の第26回は、鶏卵の自動選別包装機を製造するナベル(京都市)の南部邦男会長。1964年に創業し、国内の鶏卵選別包装機のシェア80%以上もの会社に育て上げた。南部会長は2018年に長男の邦彦氏に事業を承継している。
ナベルの創業のきっかけは、南部会長の父親が経営していた街の電気店の倒産だったという。当時高校1年生だった南部会長と父親が、大手家電メーカーから電気制御を請け負う会社として南部電機製作所(現ナベル)を創業した。
当時から南部会長は「下請けの事業だけではつまらない。せっかく会社経営をするなら、もうかる事業をしたい」と考えていたという。
数年事業を続ける中で、南部会長は、養鶏場など鶏卵業界の課題を知る。ニワトリが生む数万個もの卵を、重さ別に分けてパック詰めし、ホチキスで止めるのは大変な作業だった。当時、鶏卵の機械は欧米からの輸入品しかなく、国産の機械は重さ別に仕分けるだけで、パック詰めの機能はなかったという。養鶏場や選別包装業の会社から、「海外の機械は高額なので、ぜひ国産の機械を作ってほしい」と請われ、南部会長は鶏卵の選別包装機の開発に没頭していく。
「当時の日本は戦後復興期。製造業は伸び盛りで、業界全体が自信にあふれていました。私自身も、卵の選別包装機械くらい作れるだろう、と思っていたんです。従業員は14人。20~30代の血気盛んな若者たちが、昼間は下請けの電気制御の仕事をして、17時以降は鶏卵装置の開発に集中し、夜遅くになったらみんなで飲みに行く。その頃の泣き笑いの楽しい思い出はたくさんあります」(南部会長)
1975年、最初の試作機ができあがり、南部会長たちは喜び勇んで養鶏場での試験に出向いた。超音波でパックをシールする機械だったが、それは大失敗に終わった。
「卵の選別包装機ではなく、卵割り器でした(苦笑)。それでもありがたかったのが、養鶏場の皆さんが非常に温かく応援してくださり、もう1回出直してこい。卵はたくさんある。多少割れても気にせんでいいから頑張れ、と言ってくださったんです。ここがナベルという会社の基礎になっています。我々は養鶏業界の工務部門である。この恩は絶対に忘れたらあかんと思っています」(南部会長)
開発に着手しておよそ6年、1979年に周囲の応援のおかげもあり、ついに日本初の鶏卵選別装置が完成した。
1992年にはマレーシアに海外1号機となる鶏卵選別包装機を輸出し、2003年に現地法人を設立した。その後も順調に海外展開し、今ではアジア、欧米、アフリカなど、世界71カ国で同社の機械が使われており、ナベルは従業員約200人、売り上げ60億円超の企業に成長した。
事業を拡大していく過程には、苦難もあった。35年ほど前には米国の競合企業に特許侵害で訴えられ、4年にわたる裁判を戦った。結果的に和解で決着したが、このときの苦い思い出から、特許申請にも力を入れてきた。
「生きるか死ぬかの大変な経験をして、そこからは特許を基本に据えるべきと考えました。特許申請書類をひたすら書いて、今では数百件もの特許が出願されています。鶏卵選別包装機械では、年間の特許出願数は世界ナンバー1です」(南部会長)
自ら会社を興し、新しく生み出した製品により会社を成長させてきた南部会長にとって、仕事は人生そのもの。それゆえに、事業承継のプロセスは、苦難の連続だった。
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執筆=尾越 まり恵
同志社大学文学部を卒業後、9年間リクルートメディアコミュニケーションズ(現:リクルートコミュニケーションズ)に勤務。2011年に退職、フリーに。現在、日経BP日経トップリーダー編集部委嘱ライター。
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「事業承継」社長の英断と引き際