神戸物産(業務スーパーの運営、フランチャイズ展開)
事業承継を果たした経営者を紹介する連載の第39回は、フランチャイズチェーンを含め、全都道府県で業務スーパーを展開する神戸物産(兵庫県加古川市)のケース。創業者で、現在は町おこしエネルギーの代表取締役社長兼会長を務める沼田昭二氏は、2012年2月に、当時31歳だった長男の博和氏に事業承継した。
沼田氏は1954年に兵庫県で生まれた。貧しい家庭で、兄も姉も中学を卒業後、すぐに働いた。成績の良かった沼田氏は、親戚の援助を受け、兄弟で唯一、高校に進学することができた。
沼田昭二(ぬまた・しょうじ)
神戸物産創業者。町おこしエネルギー会長兼社長。1954年兵庫県生まれ。兵庫県立高砂高校を卒業後、三越に入社。1981年に食品スーパーを創業。フランチャイズ方式で「業務スーパー」を全国展開する。2012年、長男の博和社長に事業承継した
「周囲の同級生はみな、偏差値の高い国立大学に受験するような高校でした。私も当然、大学に進学したいと考えました。しかし、兄も姉も我慢して働いているのに、あなただけ大学に行くなんて何を考えているんや、と親に猛反対されました」と沼田氏は振り返る。
国立大学に進む同級生と上下関係ができてしまうのは嫌だ、と考えた沼田氏は当時、小売業で最も売り上げの高かった三越に入社した。
1年半ほど三越で働いた後、「一度きりの人生、自身の努力によって上に上がれないような環境には身を置きたくない。結果はすべて自分の努力によって上下するほうがいい」と考え、起業を決意する。10万円の資本金を元手に軽トラックを購入し、団地で布団カバーの販売を始めた。その10万円も、「三越の同期社員で結婚した妻にお金を借りました」と沼田氏は苦笑する。
1981年、26歳の時に8メートル四方の小さな店舗付き住宅で食品スーパーを始めた。これが業務スーパーの原点となる。前年に、長男で後に神戸物産の社長となる博和氏が誕生したばかりだった。スーパーの経営は順調だったが、1990年前後に大きな転機が訪れる。スーパーの王者ともいえるダイエーが失速し始めたのだ。
「当時の私にとって、ダイエーは憧れの存在でした。中内功さんはスーパーヒーローです。絶対に勝てないと思っていたダイエーの勢いに陰りが見えた時は、大きなショックを受けました」(沼田氏)
国内25拠点の工場と、世界で350の協力工場を持ち、オリジナル商品を開発。製販兼ね備え、フランチャイズ展開で成長スピードを高めた
沼田氏はこの時、「これまでのスーパーのように大量に仕入れ、大量に販売するビジネスモデルでは必ず頭打ちになる」と気付き、自社だけの強みをつくらなければならないと考えた。その具体策として中国に目を付けた。1990年、大連を訪れ、1992年にはその大連に最初の食品加工工場を設立した。これをきっかけにオリジナル商品を手掛けるようになった。
2000年、兵庫県三木市に製販一体のSPA(製造小売業)の業務スーパー1店舗目をオープンさせた。そして、それ以来、コストコやウォルマートなどの海外のスーパーに学び、販売費および一般管理費(販管費)を抑える挑戦を続けてきた。
「当時、ウォルマートの販管費は約16%だと聞きました。現在、業務スーパーでは販管費14%程度に抑えています。そして、国内に食品加工工場を25拠点所有し、世界に350を超える協力工場を持っています。業務スーパーはオリジナル商品を開発し、販管費を抑え、無駄・ロス・非効率のない経営をするパワーと、フランチャイズで多くの協力を得て展開するスピードの両方を兼ね備えています」と沼田氏は胸を張る。
「入社したい」と息子から突然の申し出…
沼田氏が事業承継を最初に考えたのは2004年、50歳の時、甲状腺がんを患ったのがきっかけだった。当時の役員に一時的に社長を譲り、自身は会長の立場で治療に専念した。幸い病状が良くなったため2009年に復帰し、代表取締役会長兼社長となった。
沼田氏には息子と娘の2人の子どもがいる。沼田氏は長男の博和社長が誕生した当初から「自分の後を継いでほしい」と考えていたという。そのため、幼い頃から厳しくしつけてきた。しかし、「私があまりに『おまえは後継ぎや』と息子に言うものだから、家内に叱られました(苦笑)。3~4歳の頃からは、息子の教育は家内に任せてきました」と話す。
博和社長は薬学に興味を持ち、理系の大学に進学。卒業後、大正製薬に研究職として就職した。こうした博和氏の行動から沼田氏は「もう神戸物産には入社してくれないんだろうな」とほとんど諦めていたという。
そんな博和社長は結婚後、埼玉の拠点に勤務し、関西に住む妻と別居生活を送っていた。そして、結婚して数年がたった2009年、博和社長が沼田氏に突然「お父さん、話があるんだ」と切り出したという。「なに?」と聞くと、「家族一緒に住むために関西に帰って来るつもりだ。だから神戸物産に入社したい」と博和社長。この瞬間が、「人生で1、2を争うほどうれしかった」と沼田氏。顔がにやけないよう意識しながら、「そうか、それでいいなら帰っておいでと伝えた」と笑顔で話す。
博和社長は2009年4月に神戸物産に入社。一般社員からスタートし、2010年に生産部門の部門長、2011年に取締役、2012年に代表取締役社長に就任した。加盟店を含めると数千人のスタッフがおり、スタッフには家族がある。沼田氏は事業承継において、「従業員と加盟店をいかに守るかを一番に考えた」と言う。
その中でも、順調に承継が進んだのは、沼田氏の病気が完治していない中で、事業承継を早く進めたいと考えたのが1点、そしてそれ以上に「すぐに博和君は自分より優秀だと気付いた」からだと話す。「博和君は社員からの受けもいい。多くの面において私より優秀で、バランスがいい。私はたくさん欠点があるが、博和君は何から何まで器用にこなす。これはもう、任せて大丈夫だとすぐに分かりました」(沼田氏)。
5年の“2トップ”時代を経て潔く退社
沼田氏から博和社長に対しては、経営者としての心構えなどを特別に教えたりはしなかったというが、一言「私の仕事を見てください。しかし、私と同じことはしなくていいんですよ」と伝えた。
「私の仕事を観察して自分で消化し、解釈した後は、自分なりのやり方でやってくださいと言いました。私自身も自分の得意な、やりやすい方法でやっていますから、博和君が同じことをしても私を超えることはできません。私のやり方をベースにしながら、自分なりのやり方を加えられたら、博和君は私以上に優秀な経営者になる可能性は十分にあります」(沼田氏)
2012年に博和社長が社長に就任したのと同時に、沼田氏は代表取締を退き、最高経営責任者(CEO)となった。ここから5年間は2トップの時代にした。「引き継ぎ期間は必要です。ただ、できればトップは同時に2人いないほうがいいことも確か。船頭が2人いると、うまくいかない可能性が高くなる。だから、できるだけ早く私は退くべきだと考えていました。博和君が社長になっても、立場として『沼田昭二が総大将です』となっていては、私の発言の後は誰も何も言わなくなってしまう。それではダメなんですね」と沼田氏。
実際には、2年後の2014年に沼田氏は脳幹脳梗塞を患ってしまう。そのため、経営から離れ、病状が落ち着いた2016年に顧問に就任。さらに翌2017年に神戸物産を退社した。この時、博和社長に事業承継してから約5年半。「周囲は本当に退社するとは思っていなかったようです」と話す沼田氏だが、退社の翌日から神戸物産に出社することはなかった。