脱IT初心者「社長の疑問・用語解説」(第82回)
ブルーライト対策にはうな重?
公開日:2022.12.22
堀田カーペット(ウールのウィルトンカーペットの製造・販売)
事業承継のヒントを紹介する連載の第47回は、大阪府和泉市に本社を構える堀田カーペットの2代目、堀田繁光会長。高度経済成長期から、職人とともにウールにこだわった高品質のカーペットを作り続けてきた。父親の創業した会社に入社し、火の車だった経営を軌道に乗せた堀田会長。2017年に長男の堀田将矢氏に事業承継した。その承継までのストーリーを堀田会長と長男の将矢氏に聞いた。前編では、堀田会長自身の入社と父親からの事業承継、そして将矢氏を承継者に決めるまでを振り返る。
堀田カーペットの創業は1962年。堀田会長の父が大阪府和泉市でスタートした。「創業当時、私はまだ中学生くらいでした。創業者ではありますが、父は特にカーペット製造の経験があったわけではありません。たまたま知人が経営していたカーペット会社を閉めるという話があり、父が受け継いだのです。最初は出資者として関わっていたのですが、事業を軌道に乗せるために、製造も含め経営に関与していったと聞いています」と堀田会長は説明する。
工場は自宅から10分ほどの距離にあった。堀田会長は父が運転するトラックの助手席に乗せられ、300キロもあるカーペットを運ぶ手伝いもしたという。その後、堀田会長は大阪工業大学に進学。自動制御技術の研究所への就職が内定したところで、父から「会社に入ってくれ」と言われる。「もっと早く言ってくれよと思いましたが、のんきな学生ということもあり、職業に関してそんなにちゃんと考えているわけではありませんでした。結局、父に言われるまま、1973年に堀田カーペットに入社しました」(堀田会長)。
入社して分かったのは、創業から11年たっていた堀田カーペットの経営が火の車だったということ。「当時、十数人の従業員を抱えていましたが、経営はずっと自転車操業です。ものづくりは設備投資が必要ですから、利益を出すまでに時間がかかるんですね。初めて貸借対照表を見て、会社を経営するというのは大変なんやな、と思いました。2~3年働くうちに、会社の事情がより詳しく分かってきて、これは何とかしなければまずいなと思いました。もっと営業をせなあかん、もっといい製品を作らなあかん。とにかく会社をつぶさないために、急務の課題一つひとつに取り組んでいきました」と堀田会長は振り返る。
当時、大手メーカーからの下請け業務がメインだった堀田カーペットの起死回生の方法は「脱下請け」だと堀田会長は考えた。しかし、それは一朝一夕にできるものではなかった。
「その頃、一般家庭の多くが部屋にウールのカーペットを全面施工していました。ですから、当社の主力製品は一般家庭用のカーペットでした。作れば売れるという時代で販売面ではあまり苦労はしませんでしたが、ブランドメーカーへの卸売価格が安く、利益が出にくいというのが問題でした。だから、利益率を上げるには付加価値をつけた自社製品を売り出すことが大事だと思ったんです。ただ、下請け業務をまったくやめてしまうと、売り上げが急減して会社はつぶれてしまいます。下請け業務を維持しながら自社製品を作り、自ら営業して販路を開拓していかなければなりませんでした」(堀田会長)
ここから堀田会長は、ホテルや飛行機、自動車、人工芝、電車など、さまざまな用途に向けて営業をかけて、販路を拡大していった。「ものづくりの本質は、気付きを与え、ないものを提供し、困っていることを解決することです。耐久性が必要な用途には、それを重視した製品を製造するなど品質にこだわり、とにかく他社がやらないことをやろうと必死でした」と堀田会長は話す。
地道な営業と高い品質が認められ、1983年には東京の一流ホテル、オークラの大宴会場「平安の間」に敷くカーペットを受注した。「オークラへのカーペット納入会社としては新参者なので、最初は一般フロアの2フロア分しか任されませんでした。しかし、納入後3年くらいしたときに、オークラの担当者さんに、他の会社のカーペットは時間がたつとかなり伸びてしまうけれど、堀田カーペットの製品は、その半分しか伸びなかったとほめていただきました。このように品質が評価された結果、ホテルでは大事な施設である大宴会場『平安の間』のカーペットを納入するチャンスをいただいたのです」と堀田会長は胸を張る。
1998年、「Jフリーズ」というカーペット用の糸を開発し、たくさんの特許の中でもこの特許取得は堀田カーペットの立つ位置を決めるものとなった。これは現在のレギュラー商品にも使われている。
堀田会長の努力の結果、入社時には1億数千万円だった売り上げが1990年には10億円にまで成長した。しばらくは専務の立場で、父と二人三脚で経営を続け、1991年に社長に就任、事業承継を果たした。
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執筆=尾越 まり恵
同志社大学文学部を卒業後、9年間リクルートメディアコミュニケーションズ(現:リクルートコミュニケーションズ)に勤務。2011年に退職、フリーに。現在、日経BP日経トップリーダー編集部委嘱ライター。
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「事業承継」社長の英断と引き際