堀田カーペット(ウールのウィルトンカーペットの製造・販売)
堀田繁光(ほった・しげみつ)
1951年生まれ、大阪府出身。大阪工業大学を卒業後、1973年に堀田カーペットに入社。1991年に社長に就任。2017年に長男の将矢氏に事業承継し、代表取締役会長となる
事業承継のヒントを紹介する連載の第48回は、大阪府和泉市に本社を構える、堀田カーペットの2代目、堀田繁光会長。前編では、堀田会長自身の入社と父親からの事業承継、そして長男の将矢氏を承継者に決めるまでを振り返った。後編では、将矢氏が入社してから事業承継するまでのいきさつを紹介する。
ウール素材のカーペットを製造する堀田カーペットは、1962年に堀田会長の父が大阪府和泉市でスタートした。1973年に堀田会長が入社し、経営に関与していく中で、下請け業務だけでなく、独自の製品を生み出し、ホテルや飛行機、自動車、人工芝、電車など、多様な分野に販路を拡大した。
そんな堀田カーペットに長男の将矢氏が入社したのは2008年、29歳のときだった。入社前はトヨタ自動車で働いていた将矢氏。日本を代表する大企業から従業員30人の堀田カーペットに入社し、「会社の仕組みも、従業員のマインドも、何もかも違った。最初はギャップの大きさに苦しんだ」と話す。
ウール素材にこだわり、職人とともに事業を拡大させた
「組織としての仕組みがないこと、制度が整っていないことを指摘しても、父も常務の叔父も、『うちは中小・零細やから』と言う。僕はそこに対してものすごく反発心がありました。今思えば未熟だったとしか思いませんが、当時は本気で『そんなのただの言い訳やろ』と思っていました」(将矢氏)。まだ若かった将矢氏は、当時、常にイライラしていた。「ただし、ケンカにはならないんですよ。僕が1人でイライラしていたんです」と振り返る。
一方、堀田会長は、そんな将矢氏にいかにものづくりの根幹を伝えればよいか、苦心していた。「今でも忘れません。将矢が『そんなに時間かけずに、効率良く教えてくれ』と言ったんです。ものづくりは時間がかかるんです。そんな3回、5回やったところでできるようにはなりません。100回やって一つクリアする。そういう世界です」(堀田会長)
「整った仕組みからは、新たなアイデアは生まれない」というのが、堀田会長の言い分だ。「どこにもないものを作る、発見する、隙間を見つける。その隙間を埋める商品を、自分の工場の中で作り出せるかどうか、見極める。それは、1回、2回チャレンジしたくらいでは判断できません。それなのに、効率良くと言われて、私は白けてしまったんです。覚悟だけはあるんだろうから、もう好きにしたらええがな、と思いました。自分でやってみたらいいんです。ただし、1年やってできなかったら、2年やる。それでもダメなら3年やってみる。しかし、若い人たちはすぐ諦めるんです。諦めていては新しいことはできません。これは言葉ではなかなか伝えられません」(堀田会長)
このように堀田会長が悩む中で、将矢氏は自分なりの組織改革を進めていく。しかし、すぐにトヨタと同じ方法は通用しないと思い知る。「あるべき姿と現状を整理し、そのギャップを埋めるために何をやればいいか、会議を設定して話し合ったりしたんですが、何一つ改善されませんでした。そもそもマンパワーが足りないんです。わざわざギャップなんて見つけるまでもなく、課題は目の前にたくさん転がっていた。それに一つひとつ向き合っていくしかない、と気付きました」
カーペットの良さを世の中に伝える…
そのときから将矢氏が目の前の課題として取り組み始めたのが、堀田カーペットのブランディングだ。「とにかく、うちがいい商品を作っているのは、入社当時から実感としてありました。だったら、ブランディングをしっかりやれば生き残れると思ったんです」と将矢氏は話す。
「父が入社した当時は、他社と同じような商品でも丁寧にたくさん作れば売れていました。そこから父は新しい技術を開発し、独自のものづくりを始めた。じゃあ僕は、それを世の中に伝えて、届けていく。そのブランディングに取り組もうと思ったんです」
将矢氏の入社から9年がたった2017年に、堀田会長は将矢氏に事業承継を決意。きっかけは、大雨により甚大な被害を受けた和歌山工場の復興お披露目パーティーだった。「酔っぱらった父が、みんなの前で社長を辞めますと言ったんですよ」と将矢氏。「私は覚えていないんです(笑)。ただ、皆の支援を受け、工場を復興できたのは大きな転機でした」(堀田会長)。
「私が57歳のときに将矢が入社してきて、ある程度、任せられるようになってからは、少しずつ現場から離れるように意識していました。私が会社にいると将矢がやりづらいだろうと思い、全国行脚してカーペットの良さを伝導して回るような活動を始めたのです。行脚して気付いたのは、多くの問屋や流通はいかに安く仕入れて高く売るかしか考えておらず、製品がいかに良いものかを伝える努力はしてくれない。だったら、自分たちがそれをやるしかない。事業そのものはBtoBだけれども、その先のエンドユーザーである個人に対して、カーペットの良さを伝えていく。それが、将矢がやろうとしているブランディングなのだと理解しました。こうしたブランディングに取り組む将矢の10年間を見ていて、ものづくりの根幹がある程度分かってきたのではないか。それで安心して事業承継をしたんです」と、堀田会長は話した。
[caption id="attachment_47947" align="alignright" width="300"] 26種類から選べるチェアパッド。ウールならではの座り心地の良さが特徴[/caption]
バトンを渡すにあたり、堀田会長が将矢氏に期待したのは何だろうか。「私は当社のブランド『ウールフローリング』という定番商品に対して今でもものすごく思い入れがあります。それには世界中から厳選した天然繊維ウールが持つ機能性と個性が込められているからです。それを大事にしてきた堀田カーペットの軸は、将矢にも崩さないでほしいと思っています。これからも市場は変化していきます。色もデザインも流行があります。それに合わせて変えるべきところは変えながら、大事な部分は守ってほしいと思っています」と堀田会長は語る。
事業承継から6年、堀田会長は将矢氏を次のように評価している。「カーペットの市場は、斜陽の一途をたどっています。大阪泉州のウールカーペット産地でも、1980年代には約400台動いていたウィルトン織機が、現在では約20台程度まで減少しています。これはもう、絶滅寸前の状態といえるでしょう。みんな口では『日本のものづくりを応援する』なんて言いますけど、買うのは中国製の安価なもの。そのギャップにどう立ち向かっていくかが将矢の課題です。ただ、この10年で、私にはできないことをたくさんしてくれたと感心しています。将矢なら、堀田カーペットを生き残らせることができるのではないか、と期待しています」。
[caption id="attachment_47948" align="alignright" width="200"] 堀田会長(写真左)と長男の将矢氏。経営方針はまったく違うが、大事にしているものづくりの根幹は共通している[/caption]
経営方針は異なる2人。しかし、根底にはお互いに対する敬意がある。「父は、ゼロからイチを生み出す能力があるんですよ。僕にはその力はありませんが、1を5に変える能力はあると思っています。その能力を発揮すると同時に、ゼロイチの能力がないという弱点と向き合っていかなければならない、という戒めはずっと持っています」と将矢氏は話す。
堀田会長はこれから事業承継する経営者に、「事業承継というのは、伝えないといけないことがたくさんあります。ただ、いくら伝えても、受け取り手に感度がなければ、伝わりません。経営の方法論はたくさんありますから、絶対にブレてはいけない大きな方向性だけしっかり伝えられれば、全部を伝えなくても大きな問題にはならないと思います」とアドバイスする。
将矢氏に、今後の展望を聞いた。「当社はカーペットを日本の文化にする、というビジョンを掲げています。ただ、この言葉は非常に曖昧だと思っていて、文化になるとはどういうことか、ずっと考えています。父の時代は、良くも悪くも会社を残すことに集中していた時代で、それが正義だったと思います。でも、これからの時代はそうではない。ただ生き残るというよりは、社会の中でどういう存在であるか。まだ答えは出ませんが、社会と堀田カーペットの接点を模索していきたいと思っています」
創業60年を迎えた堀田カーペット。3代目、将矢氏の挑戦を堀田会長は温かく見守っていく。