良い組織は人材を引きつける
アリス・ウォーターズが経営する「シェ・パニーズ」(カリフォルニア料理の発祥であり、「地産地消」を掲げ、世界にサステナブル農業や食育の大切さを提唱するレストラン)は創業以来、地元の農家や牧場、酪農場と直接関係を結んで供給網を築き、テクニックよりも素材を重視してきた。このレストランが長年営業を続けていることは、素晴らしいと思う。ミシュランの星を獲得したり、『グルメ』誌にアメリカ最高のレストランと評されたりするなど、数々の賞も受けている。料理のイノベーションの最前線に居続けることは、なおさら称賛に値する。だがもっとも特筆すべきは、アメリカで最高の調理人を引きつける力だろう。
シェ・パニーズの歴代シェフのリストは、スポッテッド・ピッグのオーナーシェフとして有名なエイプリル・ブルームフィールド、スターズのオーナーでカリフォルニア料理の〝考案者〞ジェレミア・タワーなど、さながら有名シェフやレストラン・オーナーの名士録の様相を呈する。ダートマス大学教授のシドニー・フィンケルシュタインは、著書『SUPER BOSS(スーパーボス)』(日経BP)で、アリス・ウォーターズをはじめ、ファッション業界の革命児ラルフ・ローレン、オラクル創業者のラリー・エリソン、映画監督のジョージ・ルーカスなどのストーリーを紹介している。彼らの共通点は、「業界全体を変革したまな弟子を、伝説に残るほど大勢生み出したこと」である。
デジタルに成熟したいと望む組織は、人材を引きつける組織となる必要がある。フィンケルシュタインの著書に書かれた、ウォーターズをはじめとするアイコンたちはどんなことをしているのか? 彼らは高い達成基準を持ち、並外れた指導欲がある。他人に対する指導から自分も利益を得ることを心得ており、賢明なリスクを進んで冒す。複雑な活動を、学習と習得ができる要素に分解する能力がある。
前回、デジタルに成熟している企業はさほど成熟していない企業と比べ、社員のデジタルスキル育成という仕事を、はるかに上手にこなすと説明した。既存のデジタルスキルの習得は必要だが、残念ながら、それだけでは将来の競争に対して十分ではない。現在の人材を訓練するだけではなく、新しい人材を引きつけ定着させなくてはいけない。
デジタルに成熟しようとする企業の大半にとって、どうやらデジタル人材の不足が問題となっていることを考えると、企業は人材の獲得を大きなリスクとみなしているのではないかと思われる。ふさわしい人材を見つけることは1つの課題であるが、その人材を維持することも同じように困難を伴う。ここでは、人材を引きつける組織になるために何が必要かについて、考えよう。
まずは、今いる人材をうまく活用する
デジタルに成熟している企業はさほど成熟していない企業と比べて、今いる人材を上手に育成していることが、私たちの調査から分かる。図は、次の3つの質問への回答の間に強い関連性があることを説明するものだ。
①あなたの会社は社員に、デジタルビジネスで発展するためのリソースおよび/または機会を提供しているか?
②あなたの会社は、社員のデジタルの知識や関心、スキルや経験を有効に活用しているか?
③あなたの会社では、組織のデジタル戦略の支援に必要な人材が不足しているか?
この3つの質問の回答は、ほぼ誰もが予想した通りの内容だったが、その成熟度により大きな違いが出た。発展と社員のスキルの有効活用のために、企業はリソースを提供していると回答したのは、成熟段階の企業が80〜90パーセントだったのに対し、初期段階の企業は20〜30パーセントにすぎなかった。
同じように、デジタル戦略を支援するために必要な人材が不足していると答えたのは、初期段階の企業が70〜80パーセントだったのに対し、成熟段階の企業はわずか20〜30パーセントだった。リーダーシップと同様に、初期段階と成熟段階の企業の相違は、十分な人材がいるかどうかではなく、人材開発のために何をしているかである。
デジタルに成熟している企業は、社員の活躍に必要なスキルの育成に時間を費やす。それを受けて今度は社員が、企業のデジタル戦略遂行に効率的に協力する。さほど成熟していない企業は、社員のスキルの開発や活用に時間を費やさないうえに、デジタル戦略を実行に移すために必要となる十分な人材がいないようなのである。
獲得した人材を失わないように…
人材を引きつけること、定着させること、育成することは別個の課題であるが、これらの課題には関連性がある。社員に研修を提供する成熟段階の企業の回答者は、戦略遂行に足りるだけの人材がいると述べた。つまり、研修を実施していても、さらに多くの人材を引きつけたいと考えている、ということだ。デジタル世界で競争し成果を上げるために、企業がさらに多くの人材を必要とするとしても、驚くに値しない。
私たちが驚いたのは、この人材の必要性がデジタル成熟度とは関係がないように思われることだ。デジタル成熟段階がもっとも低い企業の70パーセント以上が、新しい人材が必要だと回答する一方で、成熟している企業の50パーセントも同様のニーズを指摘した。既存社員に対する研修の有無やその内容にかかわらず、あらゆる企業がさらに多くの優れたデジタル人材を必要としているのだ。
そもそも人材流出は採用者の抱える難問をさらに悪化させる。会社を辞めようとする社員の多くは、企業がデジタルトレンド対応に欠けていることに不満を抱いている。社員はデジタルリーダーの下で仕事をしたいと思っているだけではない。企業が積極的にデジタル成熟度を高めようとしない場合、彼らは会社を辞めようと考え始めるかもしれないのだ。
私たちの調査で、人材流出を食い止める方法としてトップに挙がったのは、社員に成長と発展の機会を与えることだった。デジタル環境で働くためのスキル開発に機会を与える企業では、退職したいという欲求は著しく低下する。
デジタルに成熟している組織は、人材開発に投資し階層をフラット化することで、そうしたニーズに取り組む傾向が強い。人材に投資し成長(スキル開発)の機会を与えることは、継続的成長と学習の必要性に取り組むことである。分散型のリーダーシップなら、必ずしも「上層部に話を上げる」必要はなく、さらなる意思決定と当事者意識を生み出すことが可能になる。有意義な仕事や目的は人によって千差万別であるが、全体的な企業戦略と結びついた、明確で一貫したデジタル戦略(デジタルに成熟している組織のもう1つの特徴)を持てるようになる。
受動的採用は人材流出の脅威を悪化させる
デジタル成熟度が低い企業にとって、人材に関してさらに悪いニュースがある。社員が継続的に成長できる機会を得られない場合、社員はその会社を辞める傾向があるうえに、デジタル成熟度が高い企業がその社員を獲得する可能性も高くなる。デジタル成熟度が低い組織は、〝受動的採用(パッシブリクルーティング)〞として知られる、新たな慣行に直面している。
つまり、企業がリンクトインやその他職業に特化したプラットフォームを検索して、彼らの欲しいスキルを持った人物を見つけ出し、たとえその人たちが積極的に転職を考えていない場合でも接触するという現象が起きているのだ。
デジタルプラットフォームは、この受動的採用のトレンドを可能にする。実際に、すべての成熟度の企業において、回答者の75パーセントが、デジタルプラットフォームは彼らの社外での注目度を高めたと報告した。回答者の50パーセント以上が、こうしたプラットフォームを通して企業が一方的にアプローチしてきて、魅力的な仕事のチャンスを提示されたという。このようにアプローチされた社員は、あまり価値のない、あるいは生産的でない社員ではなく、あなたの組織にとって非常に価値ある人材だとみていいだろう。
これは、発展段階の企業でさえ、成熟段階の企業に最高の人材が流出するリスクにさらされている、ということだ。備えあれば憂いなし。デジタル成熟度が高い企業は採用活動で有利な立場にいることを承知しており、あなたの会社にとって極めて価値ある社員を狙っているのだ。
新たな視点を求めて業界外を見る
会社にデジタルマインドセットを吹き込んでくれるリーダーを、別の業界から採用することも一つの方法である。このようなリーダーは「アンカーハイヤー」(頼りになる雇用者)と呼ばれることが多い。ビジネスとテクノロジーのスキルを併せ持つ、デジタルに熱心な社員を引きつけるからだ。
また、すべての成熟度の企業で一貫して見られるのは、デジタル能力を開発するために外部人材と一緒に仕事をするという戦略だろう。このアプローチは、市場における人材エコシステムへの変化の予兆となる。テクノロジーによって引き起こされたディスラプションは、広く行き渡り進行も速いので、企業は独力で対処する余裕がないと感じている。デジタルトレンドに応じていかに変化すべきかを共に学ぶパートナーのネットワークを、企業は築いている。
人材流出が組織内に収まるようにする
古い世代の経営学者たちは「歩き回るマネジメント」を提唱した。常識となったこのマネジメントスタイルは、それから何世代も続いてきた。「歩き回るマネジメント(MBWA)とは、現場のメンバーとじかに話すためにちょっと立ち寄り、彼らが現状をどう思っているのか感じとり、彼らが気になっていることに耳を傾けるという習慣のことである」。
この理念は、デジタルスキル開発にまで拡張することができる。蜂の授粉は、知識が多くの組織に伝わる様子の例えによく使われる。ミツバチが花から花へと飛び回って花粉を運ぶように、社員も異なる任務に移るとき知識を運んでいる。社員は各職場で新しいスキルと知識を手に入れ、その後、学んだことをほかの人たちに残していく。企業はますます、「ツアー・オブ・デューティ」モデルを導入するようになっている。社員が一定期間ある仕事をしたら、別の仕事に移るというモデルだ。次の仕事は、前の仕事とはまったく違うこともある。
このモデルは、ほとんどの組織の人材マネジメントとは主に2つの点で異なる。社員がその仕事に無期限にとどまることを想定していないという点と、必ずしも社員を同じ職務内で垂直に移動させるわけではない、という点だ。「ツアー・オブ・デューティ」モデルは、多様なスキルを継続的に習得する必要性を社員に課す。しかも、ほかの会社に移るのではなく、組織内のキャリアでこの多様性を実現させる。加えて、繰り返し新たな環境に送られるので、社員は変化に適応しやすくなる。
冒頭でアリス・ウォーターズとシェ・パニーズの話を紹介した。フィンケルシュタインは著書『SUPER BOSS(スーパーボス)』で、ウォーターズがアメリカ屈指の料理人を引きつけたことは偶然ではなく、個人的・制度的な営為と習慣のたまものだと指摘している。デジタルディスラプションの世界は人材のアトラクションについて特に難題を突き付けるが、習慣の多くはデジタルに勝る。新たなスキルと経験を生かせる役割に首尾よく移行できるようなスキルと経験を獲得する、真の機会を社員に与える必要性が、その起点となる。