ノートやファイルなどの文具、デスクやチェアといったオフィス家具など、ビジネスに欠かせない商品を多数取り扱っているコクヨ。そうした商品を使ったことがない日本のビジネスパーソンは恐らくいないのではないでしょうか。日本を代表するオフィス用品の総合メーカーであるコクヨの創業者が黒田善太郎です。
善太郎は、「お客さまに満足のいくような品物こそが良品」との精神で製品を改良し、顧客に愛される製品を作り続けました。その改良は他社の製品よりも少しでも使いやすくしたいと、わずかずつの積み重ねでした。ビジネスにおいては、この世にない画期的な製品が注目を浴び、もてはやされることが多いのですが、既存商品のちょっとした改良にも大きなビジネスチャンスがあることを善太郎は教えてくれます。
黒田善太郎は1879年、富山市でマッチ製造業を営む家に生まれました。幼少の頃に父が他界。小学校卒業後、家を支えるために奉公に出ます。いくつかの奉公先を経て富山から大阪に出た23歳の時に働き始めたのが、和式帳簿の表紙を作る店でした。和式帳簿の中身は、和紙を束ねて糸でとじたシンプルなもの。それだけに表紙が商品としての印象を左右する重要な役割を担っており、表紙を作る店が当時は存在したのです。
ここで善太郎の「改良精神」が発揮されます。仕事のやり方を覚えると、ハケを改良したり、ノリの塗り方を研究したりして工夫を重ねていきます。他の職人より素早く表紙を作れるようになります。
1905年に独立し、大阪市に「黒田表紙店」を開業。これがコクヨの創業となりました。ただ、表紙店は問屋から注文を受けて表紙を作り、問屋に納めるのが役割です。意気込んで独立したのはいいものの、表紙の値段は帳簿全体の価格のわずか5%ですから、決して割のいい仕事ではありませんでした。
そこでまず善太郎が考えたのは、生産量を増やすことでした。ただ、当時、和式帳簿の表紙はすべて手作業で作っていました。和紙を張り合わせて厚みを持たせ、茶わんなどでこすって艶を出して仕上げるという工程を効率化するには限界がありました。
そんな中で、善太郎が目を付けたのが干し方工程の改善でした。従来は和紙を何枚も重ね貼りした後、日の出ている昼間に乾燥させていました。それに対して善太郎は夜も干せるよう物干し場を改造。それにより生産量を増やしたのです。
後発組として製品の改善に取り組む…
生産量を増やしただけでなく品質も改善して、「表紙は黒田のものでなければダメだ」と言われるまでの評価を受けるようなっていきます。このように黒田表紙店を軌道に乗せた善太郎は、1908年、表紙だけでなく和式帳簿全体の製造を開始しました。
表紙だけでも商売になっていたことからも分かるように、この頃にはすでに多くの会社が和式帳簿を手掛けていました。後発組として勝つにはどうしたらいいか――。既製品を徹底的に調査した善太郎が、改良の余地ありと見たのが紙の品質でした。
他社製品は帳簿に厚みを持たせるため、表面がザラついた紙を使っていました。この紙は毛筆で書き入れる分には問題ないのですが、当時普及しつつあったペンで書こうとするとペン先が引っかかり、書きづらいという問題を抱えていました。それを解決するために善太郎は、表面が滑らかな紙を特別に漉(す)いてもらうよう製紙会社に注文を出し、差別化を図りました。
この他にも、他社の帳簿には、使っているうちにページの端がめくれてきて使いづらくなるという欠点もありました。これは当時の和式帳簿ではやむを得ないことと思われていたのですが、善太郎は、一番上と下に丈夫な紙を入れ、端がめくれにくいように改良しました。
また、当時は生産管理や検品が行き届いていない会社があり、100枚とうたいながらも97枚だったり98枚だったりすることも。商売において信用を重視した善太郎は、正確に100枚であることにこだわり、品質管理を徹底。それを保証する意味で「正百枚」と表示する工夫をしたのです。現在もコクヨの便箋には「正百枚」といった表記がありますが、それは善太郎が帳簿を作り始めたときから受け継がれているものです。
和式帳簿で品質と生産体制を確立した善太郎は、そのノウハウを持って洋式帳簿、伝票、仕切り書、複写簿、便箋と取扱商品を増やしていきます。例えば、便箋でも帳簿のときと同じように紙の質を改良。さらに便箋がどのように使われているかを自らヒアリングし、使い勝手の良さを追求しました。
1914年には店名を黒田国光堂と改称。そして、1917年には商標を「国誉(こくよ)」と定めます。これは、富山の誉れとなるようにとの思いで故郷を出た、少年時代の初心を忘れないようにと意図してのことでした。
顧客のことを考えた地道な改良が成功への道
その後、黒田国光堂は製造だけでなく流通も含めた販売ネットワークを構築し、全国区の企業へと成長。戦争が始まると原紙の調達に苦しみますが、戦後はアメリカが税制の改革を促したシャウプ勧告によって帳簿の特需が発生し、これをきっかけに大きく売り上げを伸ばしました。
善太郎は1960年に社長を退き会長に就任、そして1966年に会社の成長を見届けながらこの世を去りました。
1961年、社名をコクヨ株式会社に変更し、ファイリングキャビネットやスチールデスクなどオフィス家具の製造まで手掛けるようになりました。1975年には無線とじのキャンパスノートの発売を開始。これが現在まで累計販売冊数が28億冊を超える大ヒットとなりました。
日本を代表するオフィス用品メーカーとなったコクヨの第一歩は、善太郎が和式帳簿の表紙を作り始めたところにあります。表紙だけから和式帳簿全体、便箋へと徐々に製品分野を広げていく中で、善太郎は「買う身になって改良を重ね、徹底的に無駄を省く」精神で常に改良を重ねました。その積み重ねが製品の価値を高め、顧客に受け入れられる要因となり、会社を成長させる原動力になりました。
善太郎が手掛けた製品は、和式帳簿の表紙をはじめ、どれも従来にない画期的なものというわけではありませんでした。しかし、善太郎は全力を傾けてそれらに改良を施し、顧客に愛される製品にしていきました。
ビジネスのサクセスストーリーで華やかなのは、「世界で初めて」とか「日本で初めて」といったフレーズで紹介される製品を生み出したケースでしょう。しかし、ビジネスの成功は、そうした奇跡的なものだけでもたらされるわけではありません。「世の中の役に立つことをしていれば、見捨てられるはずがない」という信念を持ち、当たり前の商品の改良に取り組み事業を拡大した善太郎の姿勢こそ、ビジネスパーソンの格好のお手本でしょう。